[#表紙(表紙.jpg)] 童話集 白いおうむの森 安房直子 目 次  雪窓  白いおうむの森  鶴の家  野ばらの帽子  てまり  長い灰色のスカート  野の音 [#改ページ]         この森の木に止まっている         白いおうむの一羽一羽、         それは         別の世界からの         ふしぎなたよりなのです [#改ページ]   雪  窓     1  山のふもとの村に、おでんの屋台が出ました。  ぽっとあかりのともった四角い窓の中には、はちまきをしたおやじさんが、あいそよく笑っています。『おでん・|雪窓《ゆきまど》』と書かれたのれんが、ぴらぴら風にゆれています。 「雪窓ってのは、店の名まえかね」  お客のひとりが、たずねました。 「まあそんなもんです」  からしを練りながら、おやじさんは、答えました。 「ふうん。しかし、雪もふらないうちから雪窓ってのは、どういうのかね」 「それでも、おでんは、冬のものですから」  おやじさんは、そう言ってから、この答えは、少しとんちんかんだったかなと思いました。  山の冬は早いのです。  はじめて雪がふって、あたりが、うっすらと白くなった晩、峠の方から、厚いコートのお客がひとり、ころがるように、屋台にやって来ました。 「さむさむさむ」と、お客は言いました。それから、両手をこすりながら、 「三角のぷるぷるっとしたやつください」 と、注文しました。 「三角のぷるぷる?」  おやじさんが、ひょっと顔を上げますと、これはなんと、たぬきです。目玉は、まん丸で、しっぽは、上等の|大筆《おおふで》みたいに、ふっさりしているのです。けれど、そんなことでおやじさんは、おどろいたりはしません。山には、てんぐだって鬼だって、ひとつ目だって、それから、もっともっとふしぎなものが、どっさりいることを、昔から聞いていましたから。そこで、おやじさんは、まじめな顔で、 「何がほしいって?」 とたずねました。するとたぬきは、おなべの中をのぞきこんで、 「ほら、それそれ、三角のそれ」 と、言いました。 「なんだ、こんにゃくか」  おやじさんは、吹き出しそうになりながら、こんにゃくを、お皿にとって、からしをたっぷりそえてやりました。するとたぬきは、上きげんでしゃべります。 「おでんの店はいいですねえ。それに雪窓だなんて、ほんとにすてきな名まえなんだから。ぼくは、もう、すっかり感心しちゃって」 「気に入ったかい」 「気に入りましたとも。雪げしきの中に、屋台のあかりだけが、うかび上がって見えるんだもの。その窓の中で、ゆげがあがって、おもしろそうな笑い声なんかして……ぼくも一回、雪窓のお客になってみたいと思ってました」  これを聞いて、おやじさんは、すっかりうれしくなりました。たぬきは、こんにゃくをぱくりと食べると、 「おでんの煮方は、むずかしいですかね」 と、たずねました。 「ああ、むずかしいね」 「何年ぐらい、修業がいりますかね」 「わしは、ちょうど十年だ」 「十年!」  たぬきは、ぶるぶるっと頭をふって、 「たぬきの寿命より長いじゃないか」と、さけびました。  それから、たぬきは、毎晩やって来たのです。そして、そのたびに、おでんのことを、あれこれたずねるものですから、ある晩、おやじさんは、思い切って、こう言いました。 「おまえさん、うちの助手になるかい」 「じょしゅと言いますと?」 「仕事の手伝いをするのさ。火をおこしたり、水をくんで来たり、かつおぶしをけずったりするのさ」  これを聞いて、たぬきは、踊りあがりました。 「ねがったりかなったりです。こんなにうれしいことはありません」  そう言うなり、たぬきは、さっさと屋台の中へはいりこんで来ました。そこで、おやじさんは、長いおはしで、おなべの中のものを、ひとつひとつつまみ上げて、ていねいに教えました。  「これ、だいこん   これ、キャベツ巻き   これ、ちくわ」  たぬきは、そのたびに、ふんふんとうなずきましたが、また、かたっぱしから忘れるのでした。  それでも、たぬきは、よく働いてくれたのです。とくに、さといもを洗うのなんか、うまいものでした。たぬきが来てからというもの、おやじさんの仕事は、ずいぶんらくになりましたし、家族がひとりできたようで、しあわせな気分にもなれるのでした。  それまで、おやじさんは、ひとりぽっちでしたから。だいぶ昔に、おかみさんをなくし、少し昔に、おさないむすめをなくしました。むすめの名まえは、|美代《みよ》といいました。小雪の舞う晩なんかに、よくおやじさんは、遠い空の方から、美代の泣き声が、うわーんと、わいてくるような気がするのです。お客が、みんな帰ってしまって、屋台のあかりを消すとき、ひとりぽっちのおやじさんは、いちばん、さびしいと思うのでした。  ところが、たぬきが来てから、あかりを消す前は、かえって、ゆかいなひとときになりました。お客が帰ってしまうと、たぬきは、コップをふたつ、かちんとならべて、 「さあ、おやじさん、|酒《さか》もりしましょう」 と、言うのでしたから。お酒をのみながら、たぬきは、おもしろい話をしてくれましたし、歌も歌ってくれました。すると、おやじさんは、すっかり気分が良くなって、世の中が、ひとまわりも、ふたまわりも、広がったような気になるのでした。     2  さて、雪がどっさり積もったある晩のこと。  やっぱり、あかりを消す前に、たぬきは、かちんと、コップをならべました。ところが、このとき、外で、 「もうひと皿ください」という声がしました。まだひとり、お客が残っていたのです。 「や、とんだ失礼を」  そう言って、おやじさんが、よくよくながめると、女のお客でした。かくまき[#「かくまき」に傍点]を、頭からすっぽりかぶって、まるで、雪のかげのように、ひっそりとすわっていたのです。それにしても、こんな時刻に、女の人が、おでんの屋台にいるなんて、少し妙じゃありませんか。 「もし」と、おやじさんは、声をかけました。すると、お客は、顔を上げて、にっこり笑いました。まだ若いむすめでした。えくぼがふたつ、ぽくっとよりました。このとき、おやじさんは、はっとしました。その顔は、どことなく、美代ににていましたから。おやじさんは、まじまじと、むすめの顔を見つめて、それから、心の中で、美代が死んでからの年月を、こっそり数えてみました。 (生きてりゃ、十六だ)  そう思って見ると、かくまきのむすめは、ちょうど、十六ぐらいでした。 「あんた、どこから来なすった」  おそるおそる、おやじさんは、たずねました。すると、むすめは、すきとおった声で、 「峠をこえて来ました」と、言いました。  おやじさんは、仰天しました。この雪の中を、山ひとつこえるのは、たいへんなことですから。男の足だって、まる一日はかかるでしょう。 「ほんとかね。山のむこうは、野沢村だよ。あそこから来たのかね」  おやじさんは、念をおすように、たずねました。 「はい、野沢村から来ました」と、むすめは、答えました。 「どうしてそんな遠くから」  すると、むすめは、にっこり笑って、 「雪窓のおでんが食べたくて」 と、言ったのです。 「そりゃまた、ごくろうな……」  おやじさんは、急にうれしくなって、ほくほくと笑いました。 「それじゃ、あんたは、野沢村の人かね」  むすめは、何も答えず、ほそい目で笑いました。見れば見るほど、美代によくにていると、おやじさんは、思いました。  このとき、たぬきは、屋台の奥に、じっとすわっていましたが、ふと、たぬきのかん[#「かん」に傍点]で、こう思いました。 (ありゃもしかしたら、雪女じゃないだろうか)  そういえば、色が白くて、ほおのあたりだけ、ほんのりと桃色なのです。たぬきは、昔、山で見た雪女のことを思い出しました。  まだ子だぬきのころ、母さんと、穴にもぐっていたら、まっ白いすあしが、穴の前を、すうっと通ったのです。子だぬきは、思わず、穴から首を出そうとしました。すると、母さんだぬきが、 「およし」と、止めたのです。 「あれは、雪女の足だよ。外に出ちゃいけないよ。雪女につかまったらさいご、こごえてしまうんだから」  そんなわけで、たぬきは、雪女の足しか見なかったのですが、あのときのすあし[#「すあし」に傍点]と、このむすめの顔とは、なんだか、つながっているような気がしました。たぬきは、おやじさんの背中を、トントンたたいて、ささやきました。 「おやじさん、それは、雪女ですよ。雪女につかまったら、こごえてしまいますよ」  けれど、おやじさんは、ふりむきもしませんでした。むすめが、おいしそうにおでんを食べるのを、ただもう、うれしそうに見ているのでした。おでんをきれいに食べおわると、むすめは、立ち上がりました。 「もう、帰るのかい」  なごりおしそうに、おやじさんは、むすめを見つめました。むすめは、 「また来ます」と、言いました。 「おお、そうかい。また来てくれるかい」  おやじさんは、幾度もうなずきました。 「気をつけて帰るんだよ。かぜ、ひくんじゃないぞ。またおいでよ」  かくまきのうしろ姿にむかって、おやじさんは、幾度も、またおいでよ、またおいでよと、よびかけるのです。うしろで、たぬきが、その背中をつつきました。 「おやじさん、あれは、雪女ですよ。ねえ」  すると、おやじさんは、ふりむいて、それはうれしそうにこう言いました。 「いいや、あれは、美代だよ」 「へえ?」 「むすめの美代に、そっくりなんだ。えくぼのよるところなんかね。目のほそいところなんかね。それから、たぶん、としかっこうもねえ」  このとき、おやじさんは、目の前に、小さな白いものが、ふわりと置いてあるのに気づきました。おや、と思って、取り上げてみますと、それは、手袋なのでした。まっ白い、アンゴラの手袋が、片方だけ——。 「おい、わすれものだ」と、おやじさんはさけびました。 「どれどれ」  たぬきは、手袋を、しげしげと見つめて、すっかり感心しました。 「こりゃ、上等の品物ですね。アンゴラうさぎの皮じゃありませんか」  それから、とても考え深げな顔で、こう言いました。 「そんなら、あれは人間だ。雪女は、手袋なんかしてないからね。あのひと、また来ますよ。こんないい手袋をわすれて、それっきりってことはないから」 「そうだろうか」  おやじさんは、うれしそうに笑うと、手袋を、ふところにしまいました。  ところが、それから幾日待っても、かくまきのむすめは、あらわれません。 「きょうも来なかった」 「きょうも来なかった」  おやじさんは、毎晩、そうつぶやいてうなだれるのでした。  十日も二十日もたちました。  雪の上に雪が積もり、それが、ピカピカと凍りました。雪窓のお客は、みんな、白い息をはき、 「おやじさん、寒いねえ」と、やって来るのです。 「ああ、寒いねえ」  おやじさんは、あいづちをうちながら、ときどき、注文の、だいこんと、さといもをまちがえたり、うっかりおつゆをこぼしたりするのです。そして、なんだか、うわのそらみたいな顔で、遠い山の方を見ているのでした。  ある晩、おやじさんは、たぬきに、こう言いました。 「ひとつ、野沢村まで行ってみようか」 「へえ? この雪の中を、どうやって……」 「屋台をひっぱって、山ひとつこえて行くのさ。ときどき、場所を変えて商売するのも、おもしろいもんだよ」  これを聞いて、たぬきは、すねたように、横をむきました。 「おやじさん、そんなこと言わなくとも、ちゃーんと知ってますよ。あの子をさがしに行くんでしょ」  おやじさんは、ふところに手を入れて、 「ああ。あの子は、片手が、つめたかろうと思ってね」と、つぶやきました。 「それでも、山は寒いですよ」 「だいじょうぶさ。厚いえりまきしてるから」 「それでも、山には、いろんなものがいますよ。鬼やら、てんぐやら、ひとつ目やら」 「だいじょうぶさ。人一倍、度胸はあるから」 「そうですか。そんなら、おともいたしましょう」  たぬきは、忠実なけらいのように、うなずきました。     3  雪窓の屋台を、ガラガラと引っぱって、おやじさんとたぬきが出発したのは、その翌日、どんよりとした雪の日でした。  野沢村への道はけわしいのです。  昼はそれでもバスや人の行きかいがあるのですが、夜になると、あたりは、おそろしいほど静まりかえりました。その上、雪の山道は、思いのほか歩きにくく、たぬきは、三度も、すべってころびました。 「おやじさん、あと、どれほどですか」  屋台のうしろで、たぬきは、情ない声をあげました。 「まだまだ、たんとあるよ」  おやじさんは、のんびり答えました。そういえば、てんぐが住むという森もまだですし、けわしい、ひとつ目峠も、まだ越えていません。北風が吹いて、粉雪が、ひゅーんと舞いました。 「あかりをつけようか」  おやじさんは、屋台のランプをともしました。すると、雪の夜道に、小さな四角い光が、くっきり落ちました。その中で、のれんのかげが、ゆらゆらゆれました。  急に、たぬきは、うきうきして来ました。 「ほっ、あかりがつくと、気持ちがらくになりますね。お客さんが来るような気がしますね」  するとこのとき、うしろで、こんな声がしました。  ——ゆきまどさん——  たぬきは、ぴくりと耳を動かして、はて、そら耳かしらと思いました。ところが、今度は、前で誰かがよぶのです。  ——ゆきまどさん——  おやじさんも足を止めて、はて気のせいかしらと思いました。こんな暗い山の中に、お客が来るわけがありません。それでも、ふたりは、屋台を止めて、しばらく、あたりを見まわしました。すると、いきなり、風がぴゅーっと吹いて、前からも、うしろからも、右からも、左からも、ほそい声が、ざわざわとわきおこったのです。  ——ゆきまどさん、ゆきまどさん、ゆきまどさーん—— 「へーい」  思わず、おやじさんは、大声をあげました。すると、声は、ぴたりとやみました。  誰もいません。雪をかぶった木々が、いろんなかっこうで、しいんと立っているだけでした。 「ちえっ」と、たぬきは、舌うちしました。 「おやじさん、こりゃ木の精のいたずらだ。知らんふりして、どんどん進みましょう」  ごとんと、雪窓は、動きはじめました。  車を引っぱりながら、おやじさんは、ふと、今のよび声は、美代の声ににているなと思いました。  美代は、六つのときに、病気で死にました。やっぱり、こんな冬の晩、熱で、火の玉のようにあつい美代をせおって、峠をこえたのは、ちょうど、ひと昔前になります。  あの夜は、満月でした。その、凍るような月あかりをあびて、おやじさんは、てんぐの森や、ひとつ目峠を、さっささっさと、かけぬけたのです。そうして、夜ふけに、やっと野沢村の医者の家についたとき、背中の美代は、つめたくなっていました。  そのとき、おやじさんは、本気でこう思いました。  今通って来た道の、いったいどこで、美代のたましいは、とんでしまったんだろうと。今すぐひきかえしたら、峠のあたりで、しくしく泣いている美代のたましいを、取りもどせるのじゃないだろうかと。  十年たった今でも、おやじさんは、やっぱりそう思うのでした。だから、あの晩、山の方から、かくまきのむすめがやって来たときは、もう、きもがつぶれるほど、びっくりしたのでした。 「まったくなあ。美代にそっくりなんだから」  おやじさんは、片手を、そっとふところにつっこんで、あの手袋にふれてみました。 「東の風に西の風、南の風に北の風」  うしろで、たぬきが歌っています。おやじさんは、ほーいほーいと、ひょうしをとりました。  やがて、森にさしかかりました。屋台のあかりは、ちらちらと、ついたり消えたりします。  と、ふいに、上の方で、かん高い声がひびきました。 「ゆきまどさん、だいこんは煮えてるかい」  おやじさんは、ぴくりとして車を止めました。 「だれだっ」  たぬきが、上をにらみつけました。すると、すぐそばの木のてっぺんに、てんぐの黒いかげが見えるのです。長い鼻が、にょっきりと伸びています。両足を、ぶらぶらふりながら、てんぐは、もう一度、 「だいこんは、煮えてるかい」 と、からかいました。それから、けらけらと笑いながら、まるで、こうもりのように、となりの枝へ、とびうつりました。たぬきは、すっかりはらをたてて、ぷーっとふくれましたが、木のぼりは、苦手なので、おとなっぽく横をむいて、 「あんなやつにかまっちゃいられない。おやじさん、知らんふりして、どんどん進みましょう」と、言いました。  雪窓は、動きはじめます。うしろで、てんぐが、いつまでも、高わらいしています。  屋台は、峠にさしかかりました。  すると、目の前に、ばらばらっと、たくさんのかげがとび出して来て、たちまち一列にならんで通せんぼをしたのです。そして、声をそろえて、 「ゆきまどさん、ごちそうしておくれ」 と、さけびました。みんな、目ばかりぴかぴか光っています。 「ごちそうしなけりゃ、通さないよ」  それは、まだ、子どもの声でした。おやじさんが、よくよく目をこらすと、どれもこれもおそろいのパンツをはいて、頭に、二本ずつ、つのがあるのです。 「鬼ですよ」 と、たぬきが、ささやきました。 「……だけど、どれもまだ、ちんぴらだ。うまくごまかして通りぬけましょう」  おやじさんは、うなずくと、やさしい声で、こう言いました。 「あいにく、今夜は、ひっこしでね、なんにもないんだよ」  すると、子鬼たちは、声をそろえて、 「ほんとうかあ?」と、聞きました。  おやじさんは、おなべのふたをあけて、 「ああ、ほんとうだ。このとおり、からっぽだ」と、答えました。それから、たぬきが、もっとやさしい声で言いました。 「こんど、野沢村まで食べにおいで」  すると、子鬼たちは、いっせいに、小さな片手をつき出して、 「そんなら、ひきかえ券おくれ」と、言うのです。 「よしよし」と、たぬきは、うなずきました。それから、ちょっと見えなくなったと思うと、笹の葉を十枚ほど集めて来て、子鬼たちに、くばりはじめました。 「さあ、ひきかえ券だ。これを持って、野沢村まで来れば、おでんひと皿、無料サービスするぞ」  子鬼たちは、よろこんで、きゃっきゃとさわぎました。おやじさんは、そのようすを、たのしそうに、見ていました。  小さい美代も、木の葉で遊んだのです。目をとじると、美代のおもちゃになった、さまざまの木の葉が、うかんで来るのでした。  ままごとのお皿になった木の葉、かるたになった木の葉、舟になった木の葉、そして、雪うさぎの耳になった木の葉——   こんこん小山の子うさぎは   なぜにお耳が長うござる   母さんのぽんぽにいたときに   笹の葉かやの葉食べたゆえ   それでお耳が長うござる  美代に歌って聞かせたわらべ歌が、うかんで来ました。ところが今、それとおんなじ歌を、子鬼たちは、歌いながら、遠ざかって行くのです。   こんこん小山の子うさぎは   なぜにお目々が赤うござる   母さんのぽんぽにいたときに   赤い木の実を食べたゆえ   それでお目々が赤うござる 「ま、子鬼でよかった。親鬼では、とてもあんなぐあいにはいかないから」と、たぬきが、つぶやきました。  おやじさんは、うなずいて、また、屋台をひっぱりました。 「おまえ、寒くないかい」  片手でえりまきをなおしながら、おやじさんは、聞きました。たぬきは、元気に答えます。 「へい、ちーっとも」  こんな冬のさ中、ほんとうなら、たぬきは穴の中でふゆごもりをするのですが、毎晩飲んだお酒のせいでしょうか、それとも、商売が、あんまりおもしろいせいでしょうか、ことしは、寒くも眠くもならないのでした。  峠を過ぎて、道は、少しずつ下り坂になりました。 「もうすこしだぞー」  はげますように、おやじさんが言ったそのときです。つめたい雪のかたまりが、ぴしゃっと顔に落ちて来て、横から、なんだか、ぞっとするほど気味のわるいものが、とび出して来ました。 「ひゃーっ、ひとつ目だーっ」 と、たぬきがさけびました。おやじさんも、このときばかりは、背すじがぞーっとして、両手で顔をおおうと、思わず、とびのきました。  と、そのひょうしに、たいへんなことがおきました。屋台が、ひとりで、走り出したのです。雪の下り坂を、屋台は、あかりをつけたまま、ごろごろと、ころげ落ちて行きました。 「まてー」  おやじさんとたぬきは、あとを追いかけました。けれど、勢いのついた屋台は、そり[#「そり」に傍点]よりも、馬よりも速いのです。 「おーい、ゆきまどーお」 「ゆきまどやーい」  雪窓の、四角いあかりは、ずんずん小さくなりながら、遠ざかって行きます。 (だいじな商売道具だ)  おやじさんは、死にものぐるいで走りました。走りながら、ふと、さっきのあれは、ほんとに、ひとつ目だったかしらと思いました。 「おやじさん、もうだめです。とてもとても、追いつけません」  うしろで、たぬきが、あえぎあえぎ言いました。ふりむくと、たぬきは、しっぽだけ、ぱたぱたさせながら、しゃがみこんでいます。おやじさんも、ひどくつかれていましたから、半分あきらめて、歩きはじめました。 「ふもとへ行けば、何とかなるだろう」  ほっと、ため息まじりに、おやじさんはそう言いましたがきっとそのときには、屋台はもう、ガタガタで、使いものにならないだろうなと思いました。 「まったく、急に、いのししみたいに走り出すんだから」  おやじさんとたぬきは、よろよろと山をおりました。     4  山のふもとの、野沢村の入り口あたりに、雪窓は止まっていました。ぽつんと、まるで赤いてんとう虫のように。 「あれだ、あれだ」  ふたりは、かけ出しました。  雪窓のあかりは、しだいに大きく見えて来ます。オレンジ色のあかりは、ちゃんと、四角い窓の形をしていて、その中で、のれんが、ぴらぴらゆれています。 「ありがたい。屋台はぶじだ」  ところが、これは、どうしたことでしょう。屋台の中に、人かげが見えるのです。その上、おでんのゆげまであがっているのです。  そう、雪窓は、開店していたのです。たしかに、たしかに……。 (そんなはずはあるもんか)  おやじさんは、目をぱちぱちさせながら、山をかけおりて、よくよくそばまで行きました。  すると、屋台の中には、なんと、あのかくまきのむすめが——そうです、美代にそっくりのあの子が立って、にこにこ笑っているのでした。おなべの中では、おでんが、どっさり煮えています。 「いらっしゃいまし」  むすめは、明るい声をあげました。 「お、おまえ……いつの間に……」  急に、おやじさんは、胸があつくなりました。なんだかわけがわからないままに、もう涙が出るほどうれしくなりました。 「おまえ、ごちそうしてくれるのかい」  おやじさんとたぬきは、いそいそと、いすにすわりました。 「ふうん、たまにお客になるのも、いいもんだねえ」  おやじさんは、おなべの中をのぞきこんで、 「それじゃ、ひと皿もらおうか」 と、言いました。むすめは、うなずいて、お皿に、だいこんや、こんにゃくをならべました。 「じつは、あんたに、手袋を返してあげたいと思ってね」  おやじさんは、ふところから、いそいそと、あの手袋を取り出しました。すると、むすめは、うれしそうに笑いました。 「わざわざ、峠をこえて来てくれたんですね」  そして、手袋を、左手にはめました。見ると、右手には、もうちゃんと、片方の手袋をはめていたのです。それから、とてもたのしそうに、こう言いました。 「これは、ふしぎな手袋です。これをはめると、右手は、とびきりおいしいおでんを作ります。左手は、お客をたくさん集めます」  むすめは、左手を、高々とあげて、四方八方に向かって、おいでおいでをしました。  すると、どうでしょう。  真夜中だというのに、あっちからもこっちからも、ぞろぞろとお客が集まって来たのです。ほっかむりをした人もいます。背広の人もいます。長ぐつをはいて、ジャンパーを着た人もいます。自転車の人もいます。子どももいます。まるで、おまつりの晩のように、あとからあとから人が来て、おでんを食べては、お金を置いて帰って行くのでした。  おやじさんとたぬきは、あっけにとられて、とろんとした目で、このようすを見ていました。 「さあ、おいしいおでん、雪窓のおでん」  むすめの、すきとおった声が、あたりにひびいて、雪窓のあかりは、ひと晩消えませんでした。     5  よく朝、野沢村の入り口に、小さな屋台が止まっているのを、巡査が見つけました。屋台の長いすには、主人らしい男と、たぬきが一ぴき、うずくまって眠っています。 「おい、おきろ」  巡査は、ふたりを、ゆりおこしました、おやじさんは、むっくり顔をあげて、あのむすめをさがしました。  けれど、むすめの姿はどこにもなく、目の前には、びっくりするほどたくさんのお金が置いてあったのでした。 (こ、こりゃ、ゆうべの売り上げ金だ)  おやじさんは、目をまるくしました。巡査は、ひやかすように言いました。 「ゆうべは、だいぶはんじょうしたらしいね」 「へえ」 「それで、つかれてうたたねしたんだろ。もう少しで、こごえるところだよ」 「へえ」  頭をかきかき、おやじさんは思いました。あれは、やっぱり、美代だったと。  すると、胸の中がほうっとあたたかくなって来て、おやじさんは、ひとりで幾度もうなずきました。 [#改ページ]   白いおうむの森     1  スダア宝石店の入り口は、自動とびらです。その前に、ほんの一秒立っただけで、みがきあげられたガラスのドアは、さっと両側に開くのです。中にはいると、鉢植えの大きなゴムの木に、白いおうむがとまっていて、奇妙な声で、 「こんにちはー」 と、さけびます。  このおうむに会いたくて、みずえは、毎日スダア宝石店へやって来ました。この店は、インド人が、経営していました。ですから、たぶん、その白いおうむも、インドからつれて来られた鳥なのでしょう。とさかが黄色のほかは、どこからどこまで、まぶしいほど、まっ白でした。  おうむは、朝から晩まで、ゴムの木にとまって、青くふちどられた目を、きろきろさせながら、とびらが開くたびに、こんにちは、こんにちはと、機械のようにさけぶのでした。 「あんた、いつごはん食べるの。いつ眠るの」  みずえは、おうむを見上げて聞いてみましたが、おうむは、なんにも答えません。 「ねえ、いつ、ごはん食べるの」  みずえは、その長いしっぽに、そっとさわってみました。おうむの毛は、まるで、ベルベットの布地のように、すべすべしていて、それは、みずえのだいじなねこのミーの手ざわりと同じです。  ミーも、まっ白いねこなのです。  生まれたての、まだ目もあかないときから、みずえが、ミルクをやって育てた、かわいいかわいい妹分なのです。  みずえもミーも、この近くのマンションの十階育ちでした。ふたりはよくいっしょにスダア宝石店へおうむを見にやってきました。  ずいぶん前から、みずえは、この白いおうむに、あるひとつのことばを、こっそり教えこもうとしていました。  それは、人の名まえでした。一度も会ったことのない、みずえのお姉さんの名まえでした。みずえが生まれる少し前に、この人は、別の世界へ行きました。遠い遠い、誰の目にも見えない国へ。そこはたぶん、空の果か、地の底なのでしょう。 「これ、みずえの、お姉さんなのよ」  ほとけ様に、お茶をあげたあと、お母さんが、ふいにそう言った、あの朝のことを、みずえは、忘れません。仏壇の奥に、知らない女の子の写真がありました。その子は、水玉もようのワンピースを着て、遠くを見て笑っていました。みずえより少し小さい女の子なのでした。 「こんな子どものときに、死んだの……」  みずえは、思いがけない話に、胸をドキドキさせて、やっとそう聞いただけでした。  あたしに、お姉さんがいたなんて……  みずえは、そのあと、幾度も、このことを思いだして、そのたびに、暖かいものが、胸の奥から、わきあがってくるのを感じました。それは、金モクセイの花の匂いににています。 (あたし、お姉さんに、会ってみたい。それがだめなら、手紙書いてみたい)  ある日、みずえは、そう思ったのです。でも、その手紙は、いったいどこのポストに入れたらよいのでしょうか。  この世界にいる者で、死んだ人の国へ行けるのは、鳥だけなのだと、誰かから聞きました。鳥は、よみの国[#「よみの国」に傍点]へのおつかいをするのだと。  スダア宝石店の白いおうむを見つけたとき、みずえは、胸が痛くなるほど、ドキッとしたのでした。  鳥は鳥でも、ものを言う鳥でしたから。  そのうえ、大きくて、まっ白の。この鳥なら、まちがいなく、神秘の国を知っていると、みずえは思ったのでした。お姉さんへの手紙を、このおうむに届けてもらおうと、みずえは、本気で考えはじめたのです。  手紙の文は、もうちゃんと、考えています。  お父さんやお母さんのこと、ねこのミーのこと、きらいな先生のこと、そして、赤い指輪のこと。このあいだ、みずえは、ルビーにそっくりの赤い指輪を、ふたつ買いました。それで、もし、お姉さんが、指輪が好きだったら、ひとつあげてもよいのだと、書きそえるつもりでした。あっちの国で、おそろいの指輪をしているお姉さんのことを思うと、みずえの心は、もう、金モクセイのかおりで、いっぱいになるのです。  みずえは、白いおうむの前で、大きく口をあけて、きょうも、 「なつこねえさん」と、教えます。このことばを教えはじめて、もう二週間たちます。が、いくら教えても、おうむは、目を白黒させて、とんきょうな声で、 「こんにちはー」と、さけぶだけでした。  すると、ねこのミーが、とがめるように、ミャーとなきます。ミーでさえ、もうちゃんとおぼえてしまったこのことばを、おうむは、どうして、おぼえられないのでしょうか。 「いい? なつこねえさんって言うの。ほら、なつこねえさん」  みずえが、もう一度大きな声をあげたとき、うしろで、誰かが、まねをしました。 「なつこ、ねえさん」  ひくい声でした。  だれ! どきっとして、ふりむいた、みずえのすぐうしろに、色の黒い、インド人の男が、立っていました。びっくりするほど長い足でした。茶色い彫刻のような顔でした。たぶん、この店の人なのでしょう。そして、このおうむの持ち主なのでしょう。みずえは、思わず、ミーを抱きあげて、あとずさりしました。すると、インド人は、 「この鳥はね、えさをくれる人の言うことしかきかないよ」 と、とてもじょうずな日本語で言いました。 「えさ、何をあげてるの?」  おずおずと、みずえがたずねると、インド人は、指輪をたくさんはめた指をおりながら、 「木の実や、草の種やくだものや、はちみつや……」 と、言いました。 「あーら、はちみつも食べるの」  みずえは、少したのしくなりました。 「はちみつなら、うちにもあるわ。こんど、持ってきたげるわ」 「ありがと」  インド人は、ちっとも笑わずに、お礼を言いました。     2  ところがそれから幾日かあと、みずえがはちみつのびんをかかえて宝石店へ来たとき、おうむは、いませんでした。  ゴムの木に、大きくぽっかりと咲いていたあの白い花は、消えていました。  そして、その横に、いつかのインド人が、まるで、大きな木の人形のように、ぼっと立っていたのです。みずえがはいって行くと、インド人は、くらっと動きました。そして、びっくりするほどこわい顔で、みずえをにらんだのでした。 「おうむは?」  みずえとインド人は、ほとんど同時に、そう言いました。それから、おたがいの目を、じっと合わせたのです。インド人は、ほんとうに、こわい目をしていました。おこっていたのです。なぜだかわからないけれど。  みずえは、首が痛くなるほど上を向いて、まじまじと、インド人を見つめながら、 「おうむ、どこにいるの?」 と、かすれた声をあげました。すると、インド人も、 「どこにいるの?」 と、まるで、おうむのように聞きかえすではありませんか。 「あたし、知らない」  すると、インド人は、きっぱりと、きめつけるように、こう言ったのです。 「あんたのねこが、食べたんだろ」 「…………」  みずえは、ぽかんと口をあけました。  あたしのミーが、おうむを食べたって? ねこが自分の体よりも大きな鳥を、どうやって食べるでしょうか……。みずえが、あっけにとられていると、インド人は、まるで、みずえの心の中が、ちゃーんと見えるように、ねこが、おうむを食べることぐらい簡単だよと、言いました。 「人間だって、自分の体より大きい牛やくじらを、平気で食べるじゃないか。それに、きのう、ここに、はねが落ちてたんだ」  インド人は、たしかな証拠でも見せるように、にぎりしめた右手を、みずえの前に広げてみせました。大きな手のひらに、むしり取られた、白いはねが、乗っていました。 「ねこはよく、こういうことをするんだ。おうむの肉は、おいしいからね」  みずえは、はげしく首をふりました。 「ミーは、そんなこと、しないわ」  そうです。ミーが、そんな思い切ったことをするわけがありません。あれは、とても、おくびょうなねこなのですから。赤んぼのときから、高い所で育てられ、たまに公園につれて行って、地面におろすと、土をこわがって、ふるえあがるのですから。まったく、金魚一ぴき、とったことさえないのです。そんなミーが、どうして、あんなに大きなおうむを……  けれど、このとき、ふとみずえは、家においてきたミーのことを思いだしました。そういえば、ミーは、このところ、元気がありません。ミルクも、おかかごはんも、ほとんど食べずに、ベランダに、うずくまっていました。「ミー」と、よぶと、めんどくさそうに、ほそい目をあけましたが、それっきり、まるで、考えごとでもしているように、じっと動きませんでした。 (ミーは、病気なのかしら。ほんとに、おうむを食べて、おなかこわしたのかしら)  けれど、このとき、みずえの頭に、またべつのことが、思いうかびました。 「でも、にげたのかもしれないわ。ひとりで、どっか遠くへとんで行ったのかもしれないわ」  そうです。おうむは、みずえのお姉さんのいる、遠い国へ行ったのかもしれないのです。空高く高く、星のまたたくあたりまで、とんで行ったのかもしれないのです。すると、今度は、インド人が、首をふりました。 「あれは、かってに遠くへは行かないよ。盗まれたか、食べられたか、そのどっちかだ」  インド人の目は、光っていました。その目は、こう言っていました。  おまえが盗んだか、おまえのねこが食べたか、そのどっちかだと—— 「あれは、だいじな鳥なんだ。あれがいないと、これから、これから……」  急に、インド人は、涙声になりました。それから、うるんだ目でかっと、みずえをにらんだのです。  みずえは、思わず、二、三歩あとずさりしました。インド人が、今にも、つかみかかってくるような気がして。みずえは、うしろむきのまま、じりじりと、自動とびらの所へにじり寄って、うしろで、とびらが、カタッとあく音を聞いて、くるりと、むきを変えました。そして、外へとびだして、走ったのです。もう、めちゃくちゃに走ったのです。  走りながら、みずえは思いました。もう決して決して、あそこへは行くまいと。二度とふたたび、あの自動とびらの前には立つまいと。     3  ところが、それから、十日もたたないうちに、みずえはまた、スダア宝石店の前に来ていました。  青ざめて、ひくひく泣きじゃくりながら。  あれから間もなく、ミーがいなくなったのです。まったくミーは、かきけすように、ゆくえがわからなくなりました。その夕方、みずえが学校から帰ったとき、ミーの姿は、ありませんでした。 「ふしぎねえ。さっきまで、ベランダにいたのに」 と、お母さんは言いました。みずえは、口を一文字に結んで家をとびだすと、会う人ごとに聞いてみました。 「うちのミーを知らない?」 「白いねこを見なかった?」  マンションの階段で、廊下で、エレベーターで、みずえは、誰にも彼にも聞いてみましたが、みんな、首を横にふりました。  日が暮れて、つめたい雨がふっても、ミーは、帰りませんでした。次の日も、次の日も、帰りませんでした。みずえは、泣き泣き眠りました。そして、毎晩、インド人の夢を見ました。  夢の中で、インド人は、ミーをだいていました。そして、ミーに、おうむのえさを食べさせていました。草の種だの米つぶだの木の実だの。 「ミーは、そんなもの食べないのよ」と、みずえが言うと、インド人は、にんまり笑って、 「ねこにやってるんじゃない。ねこの中にいるおうむにやってるんだよ」 と、言いました。 (あの人だ!)  ま夜中に、みずえは、がばっとおきあがりました。 (あの人が、ミーをかくしたんだ。おうむのかたきうちに、ミーをさらって行ったんだ)  でも、どうしてあの人に、あたしの家がわかったんだろう……いったいどうやって、ミーを、おびきだしたんだろう……  カーテンのすきまから、星がひとつまたたいていました。このとき、みずえは、ひょっと思ったのです。あの人は、インドの魔術師かもしれないと。魔術師なら、かぎをかけたとびらの中にいるねこを、やすやすと、おびきだすこともできるでしょう。そのねこを、誰にも見られずに、つれて行くこともできるでしょう。  とりかえさなけりゃ! どんなことをしたってミーを助けださなけりゃ……  ふるえる足をふみしめて、みずえは、スダア宝石店にはいりました。そして、ゴムの木のかげから、店の中を、そっとのぞきました。  宝石店は、すいていました。若い店員がひとり、ガラスのケースをみがいていました。壁にかざられた、大きな金の時計が、コチコチと、いかめしく時をきざんでいました。  インド人は、どこにもいません。  みずえは、そっと口笛を吹いてみました。この店の、どこかに閉じこめられているかもしれないミーを呼ぶつもりで。  すると、どうでしょう。おどろくほど近い所で、ねこがないたのです。ミャーと、ひと声、まるで、うそのように。  ゴムの木の、すぐうしろでした。あまえるような、じゃれるようなあの声は、たしかにミーでした。  みずえは、大いそぎで、鉢植えのうしろにまわりました。そして、ゴムの木と壁のあいだのせまい場所に、地下におりるほそい階段が四角い口を、黒々とあけているのを見つけたのです。  そこをおりたら、いったいどこへ行きつくのか見当もつきません。が、ねこの声は、たしかに、そのずっと下から聞こえていて、とてもはげしく鳴いているのでした。みずえは、階段の下へむかって、小さな声で、 「ミー」と、よびました。  けれど、ミーが、階段をのぼって来るようすは、まったくありません。鳴き声だけが、ますますはげしくなり、それは、たしかに、みずえを呼んでいるのでした。  みずえは、二、三歩階段をおりてみました。階段はまっくらで、少しかびくさくて、ずっと下の方に、なぞめいた倉庫でも、沈んでいるような感じがしました。 「ミー、こっちへおいで」  このとき、ずっとずっと下の方に、ちらっと白いものが見えました。たしかに、ねこの姿でした。  ミーは、ひとりでした。誰にも、つかまえられてはいませんでした。それなのに、なぜこちらへあがってこないのでしょうか。 「こっちへおいでってば」  そう言いながら、みずえは、また少し階段をおりてみました。すると、ミーの方も、二、三歩下へおりて、じっとみずえを見上げるのです。まるで、私についてらっしゃいと言うように。こんなふうにして、みずえは、ミーのあとを追って、ずいぶん下までおりてしまいました。階段は、小さな踊り場で、方向が変わりました。二十段ほどおりると、また方向が変わり、また、二十段おりると変わり、じぐざぐと、どこまでもどこまでも続いていました。ミーの足どりは、どんどんはやくなり、やがて、坂をころげおちる白いまりのようになりました。いつか、みずえは、ミーのあとを夢中で追っていました。  それにしても、地下には、なんにもないのです。どんなへやも、どんな倉庫もないのです。階段が、あとからあとから続いているばかりで。やみが、ほそく深く、地の底へ切りこんで落ちて行くばかりで。  今、みずえは、何も考えていませんでした。あのこわいインド人のことも忘れていました。ただただ、ミーのあとを追う、それ以外のことは、何ひとつ考えていませんでした。ミーは、ときどき立ちどまっては、ふりむいて、みずえをそっと見上げます。それから、また、白いまりになって、階段をころげて行くのです。  どれほど走ったでしょう。もう、地下五十階のあたりまで来たかと思われるとき、ミーは、ぴたりと止まり、こちらを向いて、はじめて、 「みゃん」と、ないたのでした。ふたつの目が、トパアズのように光っていました。みずえは、ミーの所に追いつくと、やっとやっと、ミーを抱き上げて、ほおずりしました。ミーは、あたたかい息をしていました。 「あんた、今までどこにかくれてたの。あたし、とてもさがしたんだから」  すると、ミーは、みずえの腕の中で、とつぜん、さけんだのです。 「こんにちはー」と。  人間のことばでした。そして、おうむの声でした。  みずえは、ぎょっとして、思わずねこを、どさりと足もとに落としました。 (やっぱりそうだ。インド人の言ったとおりだった……)  みずえは、ふるえあがりました。体じゅうに、あわだつように、とりはだがたちました。 (ああ、いやだいやだ。ミーってば、おうむを食べたりして)  このときです。  やみの底が、ほうっと、明るくなりました。ずっと下の方に、ふしぎな、白い森が見えて来たのです。その明るさは、雪あかりなのでしょうか、それとも、白い花あかりなのでしょうか……  ふいに、みずえの心に、|灯《ひ》がともりました。 (もしかしたら、あそこは、あの国じゃないかしら。あそこで、夏子姉さんが、待ってるんじゃないかしら)  ああ、きっとそうです。おうむを食べたミーは、おうむのふしぎな力で、みずえを、地の底の国へ案内してくれたのです。  たちまち、みずえの胸は、知らない世界へおどりこんで行くよろこびで、はち切れそうになりました。こんな気持ち、おととしの夏以来です。お父さんと、お母さんと海へ行って、三人で、手をつないで、よせて来る波に向かって、ひたひたと走ったときの、あの快さ——  みずえは、夢中で、階段をかけおり、そのふしぎな明るさの中へ、とびこんで行きました。     4  そこは、大きな森でした。つたのからんだ、古い木々が、うっそうと生い茂っていました。木の枝には、白い花々が、あふれるほどに咲いていて……いいえ、近づいてみると、それは、花ではなくて、鳥でした。  なんと、白いおうむの|群《むれ》なのでした。  森じゅうに、まるで、いくつものぼんぼりをともしたように、白いおうむたちが、はねを休めていたのです。どのおうむも、長いしっぽを、ゆらゆらさせて、口々に、ふしぎなひとりごとを言っていました。たとえば、 「お元気ですか」とか、 「その後いかがですか」とか、 「ごきげんよう」とか。  そればかりではありません。耳をすますと、森の中は、ありとあらゆることばの渦でした。外国語もありました。意味のないよびかけや歌のひとふしもありました。  木の下には、ひとりずつの人間がすわっていて、思い思いの姿勢で、自分の木のおうむのことばに、耳をかたむけていました。おうむの数は、木によってちがいます。数えきれないほどどっさりいる木もあれば、一羽も、おうむのいない木もありました。鳥のいない木の下にいる人は、さびしそうに見えました。  ねこのミーは、木々の間を、とても慣れた足どりで、進んで行き、ある一本の木のところで、ぴたりととまりました。  その木の下に、ひとりの女の子がすわっていました。その子は、水玉もようのワンピースを着て、遠くを見ていました。  たしかに、あの人でした。 「夏子姉さんね!」  みずえは、うれしくて、もう涙がでそうになりながら、お姉さんの木に、ころげて行きました。  夏子姉さんは、きれいな長い髪をしていました。その横顔は、どこかしら、お母さんににていました。けれど、どう見ても、みずえの妹としか思えない子どもなのです。みずえは、そのことに、しばらくためらってから、ああ、この人は、今の私より小さいときに死んだんだわと、なかば夢のような思いでうなずいたのでした。  みずえは、夏子姉さんの横にしゃがみました。すると、ミーがそばに来て、 「こんにちは」と、言いました。  夏子姉さんは、みずえを見て、にこっと笑いました。まるで、みずえが来るのを、待っていてくれたように。みずえは、すっかりうれしくなって、 「あたし、あなたの妹なの。みずえっていうの」と、さけびました。 「知ってるわ」  夏子姉さんは、たのしそうに、うなずきました。 「あなたのこと、お父さんのおうむから、何度も聞いてるわ」 「お父さんのおうむ?」  みずえが、きょとんとしていますと、一羽の白いおうむが、遠いやみのむこうからとんで来て、夏子姉さんのかたにとまりました。そして、 「夏子ちゃん、夏子ちゃん」 と、早口に、よんだのでした。夏子姉さんはそのおうむを、ひざの上にだきあげて、 「このおうむはね、お母さんのおつかいなのよ」と、言いました。  みずえが、びっくりしていると、夏子姉さんは、木の枝をゆびさして、たのしそうに言いました。 「あのてっぺんにいるのが、お父さんのおつかい、そっちの枝で眠っているのは、いなかのおじいさんのおうむ。その下で、ほら、今、むこうを向いているのが、おばあさんのおうむ。この木にいる鳥はどれもみんな、むこうの国で、あたしのことを思っていてくれる人たちのおつかいなの」 「…………」  今、はじめて、みずえは知ったのです。お父さんもお母さんも、夏子姉さんのために、自分のおうむを秘密で飼っていたことを。そしてそれをこんなに深い地の底の国までとばせていたことを。 「お母さんのおうむは、毎日ここへとんで来るわ。一日も休まずに来るわ」と、夏子姉さんは、言いました。 「知らなかったわ。そんなこと、ちっとも知らなかったわ」  みずえは、大きなため息をつきました。そしてこのとき、みずえの胸に、あのインド人の顔がうかんだのでした。 「おうむは?」と、みずえをにらんだ顔が。 「あれは、だいじな鳥なんだ」と、言ったときの、うるんだ目が。 (あの人もきっと、誰かのために、白いおうむを飼っていたんだわ。誰か、とてもだいじな、死んだ人のために……それなのに、あたしのミーが、あのおうむを食べてしまって……)  みずえは、ミーのすがたを、そっとさがしました。  ミーは、すぐそばの、低い枝で、眠りこんでいました。息をするたびに、白いおなかが、ふくらみました。おうむたちも、しゃべりつかれて眠っていました。  森の中は、明るく静かです。  ふたりは、お父さんや、お母さんの話をしました。それから、コケモモの実をとって食べたり、木の葉でトランプをしたり、小声で、歌を歌ったりしました。 「お姉さんは、いつもここにいるの? ここにすわって、おうむのことばを聞いているの?」  歌がとぎれたとき、みずえは、そっとたずねました。すると、夏子姉さんは、首をふりました。 「おうむは、時間が来ると、みんな帰ってしまうわ。おうむが帰ると、ここは、まっ暗になるのよ。そうすると、このずっとむこうにある、くらやみの谷で、鬼が火をたいたり、おおかみが、ほえたりするの。それから、黒いマントを着た風が、歯をむきだしてやって来て、木の枝を、ぎしぎし、ゆするの」  みずえは、思いがけない話に、息をのんで、遠くをながめました。  そういえば、この森のむこうは、えたいの知れない空洞のようでした。耳をすますと、やみからやみをわたる風が、ヒューヒューと、気味の悪い笛をふいて、そのむこうで、カラスが、ないていました。 「鬼は、ここにもやって来る?」  こわごわと、声をひそめてみずえが聞くと、夏子姉さんは、うなずきました。 「ええ。ときどきやって来るわ。鬼は、人のたましいを食べるのが好きなのよ。あたしたちは、鬼をよせつけないために、ひとところに集まって、魔よけの歌を歌うの。それは、あのおうむたちが、届けてくれたことばを、全部つないで、ふしをつけたものなの。そうすると、鬼やおおかみは、みんなにげて行くのよ」 「…………」  みずえは、この国が、思っていたよりも、ずっと不気味な場所だったことを知って、なんだか、とてもせつなくなりました。 「……あたしは、もっと、良い所だと思っていたわ。お花のいっぱい咲いた、たのしい所だと思っていたわ」  すると、夏子姉さんは、静かに、こんなことを言いました。 「ええ。そういう所が、このずっと先に、あるんですって。くらやみの野原や、おおかみの谷のまだむこうに、本当の輝いた国があるんですって。そこには、きれいなひなげしの花畑や、あんずの森や、青い湖があるんですって」 「そこへ行くことは、できないの?」 「そこへ行くためには、道案内がいるのよ。くらやみの中で、白く光りながら、私たちを導いてくれる、強いおうむが」  夏子姉さんは、ほっとため息をつきました。そして、そんなおうむは、今のところ、一羽も来ないわと、つぶやきました。おうむは、時間が来ると、一羽残らず、飼い主のところへ帰って行ってしまうのでした。おそろしいおおかみや、鬼のいる道を、かがり火のかわりになって、案内してくれるほど勇気のあるおうむは、まだ一度も見たことがないと、夏子姉さんは、つぶやきました。  もの悲しい思いで、みずえは、枝のおうむたちをながめました。  と、夏子姉さんは、ふいに手を伸ばして、眠っているミーを、まっすぐゆびさしました。そして、いきなりかん高い声で、さけんだのです。 「ねえ、あのねこは、どうかしら」  あんまり思いがけない話に、しばらくの間みずえは、声が出ませんでした。血が、かっと、頭にのぼり、胸が、早がねのようになりました。 「あれは……あれは、だめよ……」  立ちあがり、よろよろと枝にかけよって、みずえは、やっとそう言いました。 「ミーは、あたしのねこなんだから。それに、ミーがいなかったら、あたしは、うちへ帰れなくなるわ」  こめかみのあたりが、ピクピクしました。 「ミーは、絶対にだめよ! 道案内なんか、できないわ」  しぼりだすような声で、そうくりかえしながら、はっと気がついたとき、みずえとミーのまわりを、おおぜいの人々が、とりかこんでいました。  どの人も、どの人も、ミーをゆびさしていました。そして、まるで、呪文のようなひくい声で、 「あのねこは、どうかしら」 「あのねこは、どうかしら」 と、ささやきあっているのでした。みずえは、わなわなふるえました。 「だめよ! ミーはそんな役には、たたないのよ」  すると、たちまち、あっちからも、こっちからも、かすれた声が、よびかけるのです。 「どうぞ、そのねこをください」 「道案内に、ください」 「ください」 「ください」  …………  こわーい!  みずえは、ミーを、だきしめました。  ちょうどそのとき、風が、ハモンドオルガンのような音をたてて吹いて来ました。すると、眠っていたおうむたちは、いっせいに目をさまして、はばたきはじめたのです。おうむたちは、みるみるうちに、枝から舞い上がり、一列になって、上へのぼりはじめました。白い光の線が、まるで、らせん階段のように、ぐるぐるまわりながら、やみの中に、すいこまれて、消えて行くのです……  やがて、あたりは、まっ暗になりました。みずえのうでの中のミーだけが、くっきりと、うかび上がって見えました。 「夏子姉さん」 と、みずえは呼んでみましたが、返事はありません。そして、そのかわりに、人々の歌う魔よけのコーラスが、わきあがりました。  ずっと遠くで、ゲラゲラと、鬼が笑っています。赤い火が、チロチロと、もえています。  みずえは、急いで、ミーを地面におろすと、 「ミー、帰るのよ」と、言いました。  ミーは、しっぽを、ぴいんと立てました。それから、あのトパアズの目で、きろりと、みずえを見たのです。ああそれは、何と忠実な輝きだったでしょうか。  ミーは、かけだしました。みずえは、夢中で、そのあとを追いました。  ハモンドオルガンの風の中を、ミーとみずえは、矢のように走ります。 (早く早く! 早くしないと、とびらが閉まってしまう)  なぜだか、みずえは、そんなことを思っていました。この、暗やみの国と、地上との境にある、目に見えない自動とびらをとびこえたら、もう、だいじょうぶなのだと……  ミーとみずえは、まっ暗な階段を、何千段も、何万段も、かけのぼりました。足がもつれて、幾度も、ころびそうになりながら、あえぎあえぎ、のぼりました。  お父さんの暖かい手、お母さんの焼いたパイ、きのう買った人形、算数のノート……そんなものが、みずえの頭の中で、キラキラ光りました。そして、そのあとから、夏子姉さんの白い顔が、ほろにがい夢のように、うかんで、消えて行きました。     5  気がついたとき、みずえは、ミーをだいて、ゴムの木のうしろに立っていました。  くらくらするほどまぶしい、真昼のスダア宝石店でした。 「どこへ行ってたんだい?」  とつぜん、ひくい声で、誰かが聞きました。インド人でした。まるで、待ちぶせでもしていたように、ゴムの木のむこうがわに立っていたのです。 「どこへ行ってたんだい?」  もう一度、インド人は、聞きました。 「あのう、あのう……このずっと下の……白いおうむの森」  しどろもどろに、みずえがそう答えますと、インド人は、ミーをゆびさしました。 「そのねこが、案内してくれたのかい?」  みずえは、小さくうなずきました。 「たいしたねこだなあ。おうむの役目とねこの役目と、両方するんだから」  インド人は、すっかり感心して、つかつかと、みずえのそばへよって来ました。それから、とても、しんけんな顔で、こう言ったのです。 「そのねこを、ちょっとかしてもらえないだろうか。私も一回、あの国へ行ってみたいんだ」  みずえは、はげしく首をふりました。  すると、インド人は、たのみこむように言いました。 「会いたい人があるんだ」  これを聞いて、みずえは、はっとしました。 「誰に? 誰にあいたいの」 「…………」 「ねえ、おじさんは、誰のために、白いおうむを飼っていたの」  すると、インド人は、ぽつんと言いました。 「好きな人のために」と。 「お母さん?」 「いいや」 「お姉さん?」 「いいや」 「それじゃ誰? 誰なの」  インド人は、夢をみるような目をして、こう言いました。 「見なかったかい。あの国で。金の耳かざりをした、インドの娘を」  みずえは、そっと首をふりました。 「サリーを着て、赤いガラス玉の腕輪をはめてるんだ。名まえは、スダアっていうのさ」 「スダア? このお店と同じ名まえなのね」 「そう。もう、十年も昔に死んだ、私の婚約者なんだよ」  インド人は、ゆかにすわって、長いひざをかかえました。みずえも、ねこをだいたまま、そのとなりにすわりました。すると、インド人は、右手の小指にはめた、赤い指輪をはずして、みずえに見せました。 「これを、スダアにとどけてやりたいと思ってね」  それは、びっくりするほど大きなルビーでした。 「指輪をあげないうちに、スダアは、死んでしまったもんだから」 「…………」  おとなの、こんなに悲しそうな顔を、みずえは、はじめて見ました。 「このねこ、一回だけ、かしてあげてもいいわ」  みずえは、ぽつんと言いました。  インド人は、まぶしそうに、ミーを見つめました。みずえは、白いつぼみのようなミーの耳に、そっと口をつけて、 「もう一回、あそこへ行って来てちょうだい。この人を、インドのむすめさんの木まで、つれて行ってあげて」と、ささやきました。それから、とても小さな声で、つけくわえたのです。 「でもね、ミー、あそこから先へ行ってはだめよ。どんなにたのまれても、ちゃんと帰ってくるのよ」  すると、ミーは、するりとゆかにおりて、インド人を見あげて、かすかになきました。そして、ゆっくりと階段をおりはじめました。 「ありがとう」  インド人は、大きな目を輝かせて笑いました。それから、すっくりと立ちあがり、ねこのあとについて、地下へおりて行きました。とても長い足で——  コン、コン、コン、コン……  インド人の足音が、地下へおちて、遠ざかって消えて行くのを、みずえは、すわったまま、じっと聞いていました。  それっきり、ミーとインド人は、帰ってこなかったのです。  みずえは、毎日、ゴムの木のうしろへ来てみました。暗い階段にむかって、ミーを呼んでみました。が、地の底からは、風の音が、ゴーッと、わきあがってくるだけでした。  時々、風の音にまじって、ふしぎな足音や歌声や、「スダア、スダア」とよぶ、おうむの声とも人間の声ともつかぬ呼び声が、聞こえてきたりしました。  けれど、いつか、そんな音も、聞こえてこなくなり、みずえが十二になったある日、ゴムの木のうしろの階段は、あとかたもなく消えていました。 [#改ページ]   家     1  むかし、猟師の長吉さんが、よめさんをもらった晩のことです。  あれは、秋でした。  猟師仲間が、酒だの肉だの持ちよって、祝ってくれたあと、長吉さんは、よめさんとふたりきりになって、いろりに向かいあっていました。こんなときには、何か気のきいたことのひとつも言いたいもんだと思いながら、長吉さんは、いろりの灰をいじっていました。  よめさんも、まぶたを、ぽっと赤くして、うつむいていました。  このとき、外で、落ち葉をふみしめる音が、しんしんしんと、響いてきて、戸口が、ほそめにあいたのです。そして、そのほそい戸のすきまから、 「おめでとさんです」 と、誰かが言いました。女の声でした。 (今ごろ、だれが……)  長吉さんと、よめさんは、はじめて顔を見あわせました。それから、長吉さんが戸口に出てみますと、そこには、まっ白の着物を着て、頭にさざんかの赤い花を飾った女が、ゆらりと立っていました。女は、 「おめでとさんです。これは、心ばかりの祝いで」 と、言いながら、ひらべったいまんまるいものを、長吉さんに手わたしたのです。 「へえ」  長吉さんは、思わず両手でそれを受け取って、あんたさんは、と、聞こうとしましたが、そのときもう、女の姿は、消えていました。 「今の、誰ですか」  よめさんがよって来て、いぶかしそうにたずねましたが、長吉さんにも、とんと見当がつきません。 「さあなあ、あんな女は、見たことないがなあ。白い着物着て、髪に赤い花かざって……」  このとき、長吉さんは、はっとして口をつぐみました。急に顔から、血の気がひくような思いがしました。  もしかして、今のは|鶴《つる》じゃないだろうか。この間、まちがえて殺した|丹頂鶴《たんちようづる》じゃないだろうか。長吉さんは、あえぎあえぎそう思ったのです。  禁猟になっている丹頂鶴を、長吉さんが、うっかりうち落としてしまったのは、つい三日ほど前のことです。  たったひとりで、山道を歩いていたとき、むこうの、峰の森のあたりから、朝日にむかって、白い大きな鳥が、ふわっと、とび出したのです。まぼろしのように美しい鳥でした。とっさに、長吉さんは、ねらいをつけて、ダンと、一発やったのです。てごたえがあったと思ったその瞬間、長吉さんは胸がざわざわっとしました。たった今うち落とした鳥の、頭のてっぺんに、赤い丸があったような気がして。つばさの先っぽが、たしかに黒かったような気がして。 (いや、赤いのは、朝日のせいだ。黒いのは、影だ)  そう思いながら、長吉さんは、えものをひろいに森へ向かって走りました。絶滅しかけている丹頂鶴が、よりにもよって、こんな所に現われるわけがないと、自分に言い聞かせながら。  けれど、森の落ち葉の上に、ぱたりと、うち落とされている鳥を見て、長吉さんは、青くなり、その場に、すわりこんでしまったのです。まぎれもなく、丹頂鶴でした。この、めずらしい美しい鳥を、うち落とした者は、罰金をとられます。 (いや、罰金じゃすまねえかもしれん。鉄砲とりあげられるか、牢屋にぶちこまれるか……)  長吉さんは、わなわなふるえました。ふるえながらも、きょうは、ひとりで来てよかったと思いました。このことを知っている者は、まだ誰もいないのです。早いところ、鶴をかくしてしまえば、何ごともおきません。  長吉さんは、いそいで、その場に、穴を掘りました。深い深い穴を掘って、そこに、す早く鶴を埋めたのです。 「すまんことをしたな」  埋めるとき、長吉さんは、鶴のつばさの上に、さざんかを一輪、そっと落としてやりました。  それから、長吉さんは、走ったのです。鉄砲をかついで、たったたったと、わきめもふらず走ったのです。走りながら、今夜は、雪になればいいと思いました。雪がどっさりふって、穴のあとを、すっかり消してくれたらいいと思いました。  この、重苦しい秘密を、長吉さんは、来たばかりのよめさんに、うちあけました。 「誰にも言うなよ」と、幾度も幾度も念をおして。よめさんは、目を大きく見開いて、 「それでも、今の女は、ほんとに鶴だろうか」 と、こわごわささやきました。 「うん。きっとそうだ。顔つきといい、体つきといい、どことなく変わっていた。あれは、いかにも、鶴の顔だ」  それにしても、今の女は、少しも恨んだようすをしていませんでした。それどころか、おめでとさんですと、やって来たのです。祝いの品物まで持って来たのです。  ふたりは、その品物を、ランプの光に照らして、つくづくとながめました。それは、一枚のお皿でした。  大きくて、まんまるで、模様が何もないかわりに、きれいな青い色をしていました。 「ほう、こりゃいったい、なに焼きだ……」  長吉さんは、お皿を、すべすべと、なでまわしました。よめさんも、そっと、お皿をさすりました。まったく、その青は、何ともいえずよい色でした。よく晴れた日の空の色より、まだ青いのでした。じっとながめていると、すいこまれそうに深い色あいなのでした。 (死んだ鶴が、何のつもりで、こんなものを……)  ふたりは、こわごわ顔を見あわせました。  青い大皿は、貧しい猟師の家の、とだなの奥ふかくしまわれました。はじめ、ふたりはこのお皿を、けっして使いませんでした。丹頂鶴ののろいでもかかっているような気がして、気味が悪かったのです。  けれど、何ごともなく月日が過ぎるうちに、猟師のよめさんは、たまに、あれを使ってみようかという気になりました。つややかな空色のお皿は、何を盛っても、はえそうでした。とくに、もぎたての果物なんかをのせたら、どんなにおいしそうに見えるだろうかと思いました。  ある日、よめさんは、思いきって、青いお皿に、おむすびをならべてみました。そして思わず、「ほっ」と、さけびました。麦ごはんに塩をまぶしただけのおむすびが、青いお皿の上に置かれると、たちまち、きりりと白く、おいしそうに見えて来たのです。よめさんは、お皿を、いそいそと、おぜんに運びました。  はじめ、長吉さんは、青いお皿に気づいて、顔をしかめました。けれど、盛られたおむすびを見ると、もう、ごくりとつばをのんで、手をのばしたのです。そして、ひと口食べるなり、長吉さんは、 「こらうまい!」と、さけびました。麦のおむすびを、こんなにおいしいと思ったのは、はじめてです。麦ごはんのあまさと、塩のかげんが、何ともいえません。かめばかむほど、おいしいのです。  それからというもの、ふたりは、毎日、青いお皿で食事をしました。このお皿に盛ると、どんな食べ物も、おいしく思われました。貧しい猟師のことですから、昼のごはんが、ふかし芋だけのときもあります。それが、ふたりには、少しも不足ではありませんでした。  こうして、青いお皿を使うようになってから、長吉さんは、少し太りました。足も強くなり、走るのが、今までより、ずっと早くなりました。峰の森まで、休みなしに、ひと息でかけのぼれるようになりましたし、鉄砲のうでまえも、ずんと上がって、たいした名人になりました。長吉さんが、いったんねらいをつけて、しくじったことは、まあありません。長吉さんの獲物は、ふえました。そこで、家を大きくしたり|納屋《なや》をたてたりしました。そのうちに、長吉さんの家には、むすこが八人もできました。 「こりゃ思いがけなく、幸運の皿だったなあ」  長吉さんは、よめさんに、そっとささやきました。  八人のむすこたちは、すくすくと育ちました。  何ごともなく、月日が流れたのです。  そして、むすこたちが、それぞれ、よめさんをもらって、孫も、幾人かできたときに、長吉さんは、ちょっとした病気がもとで、ぽっくり死にました。     2  さあ、ふしぎなことは、それからおきたのです。  長吉さんが死んだその日に、あの青いお皿のまん中に、鶴の模様がひとつ、ぽっとうかんだのでした。それは、丹頂鶴でした。大きな美しいつばさをひろげ、東へ向かって、ゆったりととんでいく姿でした。東へ——そう、長吉さんのよめさんには、たしかに、そう見えたのです。鶴のとぶ方向は、お皿の置き方で、どうにでも見えるのですが、鶴の頭にぽっとついた赤い点が、まるで朝日がうつっているように思えたのです。昔、峰の森で、長吉さんがうった丹頂鶴も、朝日に向かってとんでいたといいます。今はもうおばあさんになったよめさんは、ひとりで毎日この鶴の絵を、ながめて暮らしました。すると、だんだんに、それが夫の長吉さんのように思えて来ました。この鶴の絵は長吉さんが死んだあと、まるでうつし絵のように、うかび上がって来たのですから。 (そうだ、これは、あの人のたましいだ)  おばあさんは、そう考えつくと、やっぱりこれは、ただのお皿ではなかったと思いました。そこで、このことを、すぐにもむすこたちに話そうとしましたが、ふっと、こんな考えがうかんで、やめにしました。 (家族の者に、このことを話したら、あのひとが昔、丹頂鶴を殺したことまで話さにゃならない)  おばあさんは、自分が、この家によめいりしたばかりのあの晩、長吉さんが、誰にも言うなと、幾度も念をおして、秘密をうちあけてくれたことを、思いだしたのです。そうだ、あのことは、ふたりだけの秘密なんだ。ふと、おばあさんは、妙に甘い気持ちになって、しみじみと、お皿を見つめました。  もう数十年、このあたりに、丹頂鶴の姿は見られません。昔、長吉さんがうったのは最後の生き残りだったのかもしれません。あの鶴は、自分の命のかわりに、長吉さんのたましいを鶴にして、お皿の中に入れたのかもしれません。  おばあさんは、お皿の鶴にむかってそっと、 「父ちゃんよー」と、よんでみました。  それから、このことを、誰にも気づかせないために、台所仕事を、すすんでするようになりました。とくに、あの大皿に、おかずを盛るのは、決まって、おばあさんの仕事になりました。お皿の鶴は、上に食べ物をのせてしまえば、すっかりかくせます。ごはんがすむと、おばあさんは、まっ先に大皿をきれいに洗って、とだなにしまいました。  おばあさんのむすこが三人、戦争へでかけたのは、それから間もなくのことです。  猟師のむすこですから、みんな、鉄砲うちは、得意でした。その上、度胸も体格も、りっぱでした。きっと、てがらをたてると、意気ごんで出かけて行ったのです。  けれど、遠い外地へ行ったむすこからの便りは、二年目にふっつりとだえました。三人が三人、そろいもそろって。 「どうしたことだろう」  年とった母親と、三人のよめさんたちは、ときどき不安そうに話しあいました。そして、最後には、便りのないのが良い便りだということで黙りこんでしまうのでした。  そんなある日、おばあさんは、なにげなく、あのお皿を、取り出してみました。そして、それをひと目見るなり、もう、息が止まるほどおどろきました。  お皿の鶴の模様が、急にふえていたのですから。鶴は、全部で四羽になっていたのです。長吉さんの鶴のすぐうしろに、三羽の鶴が、一列にとんでいました。  おばあさんは、お皿をだいて、台所の床にくずれると、いきなり、笛のような声をあげました。それから、むすこの名まえを、ひとりひとりよびながら、激しく泣きました。ほかのむすこやよめさんや、孫たちが、かけよってきて、一体どうしたことかと、たずねました。おばあさんは、お皿の鶴を一羽一羽指さして、 「みんな死んだ、みんな死んだ」 と、くりかえしました。家族の者は、おばあさんが急に、気が変になったと思いました。  三人のむすこの戦死の知らせが、この家に届いたのは、それから間もなくでした。  それでも、お皿の秘密は、誰にも気づかれず、月日が流れました。  が、やがて、この大家族の中にたったひとり、鶴の模様を気にする子どもが出てきました。  ひまごの春子でした。春子は、小さいころから、ひいおばあさんにかわいがられていて、おばあさんが、お皿を洗うときはいつも、手伝っていたのです。おばあさんは、あのお皿を、ことさらだいじにあつかいました。そのお皿だけは、洗い終わったあとも、念入りにみがかれるのです。そして、とだなにしまう前に、おばあさんが、ひくい声で、ひい、ふう、みいと、お皿の鶴の数をかぞえているのを、春子は、いつも見ていました。  春子が、ものごころついたとき、鶴の数は、たしか、十羽ぐらいでした。それが、学校にあがるころには、なんだか、ふえたような気がします。 「おばあちゃん、このお皿の模様は、もとからこんなだった?」  あるとき、春子が、そうたずねましたら、おばあさんは、 「ああ、そんなだったねえ」と、とぼけた声をだしました。 「でも、あたしは、なんだかふえたみたいな気がする。こんなちっちゃいの、もとからいたかしら」  春子は、お皿のはしっこの、子どもの鶴を、ぽんと、はじいてみました。すると、おばあさんは、春子の手をつかんで、とてもこわい顔をしたのです。 「そんなことするんじゃない。この小さいのは、お前の弟じゃないか」 「…………」  春子はびっくりしました。春子の弟は、去年、青梅を食べて、四つで死にました。 「どうして? どうして、これが弟?」  春子が、いきごんでたずねますと、おばあさんは、首をふっと、目をしょぼしょぼさせながら、 「いや、小さい鶴は、かわいらしくて、死んだぼうずににてるってことさ」 と、つぶやきました。それから、黙って、お皿をふきました。  春子が、お皿の秘密を、はっきり知ったのは、このひいおばあさんが、死んだときでした。おばあさんは、九十いくつで死にました。  すると、先頭の長吉さんの鶴の下に、おばあさんの鶴が、ぽっとうかんだのです。春子は、その新しい鶴をさすりながら、 「おばあちゃん、おばあちゃん」 と、泣きました。  おばあさんの鶴は、長吉さんと、つばさをそろえてとんでいます。静かに、たおやかに、しあわせそうにとんでいます。  おばあさんが死んだあとも、お皿の模様のふしぎは、続きました。  一族の中で、ひとり死ぬ者がでると、お皿の鶴の絵は、確実に、一羽ずつふえていきました。  大きな鶴も、小さな鶴も、くちばしから、足まで、ぴいんと一直線に伸ばし、東へ東へと、とんでいます。けれど、その模様を、気をつけて見る者は、あいかわらず春子のほか、ひとりもいなかったのです。お皿の鶴は、ずんずんふえていき、もう、数えきれないほどになりました。遠くをとんでいる鶴の頭の赤い点は、けしつぶほどでした。つばさは、ほそい線になり、よくよく目をこらさないと、数えることができないのでした。  実際、長吉さんの一族には、この十年ほどの間に、ずいぶんたくさんの不幸があったのでした。 「あの家は、どんどん人がへっていく」 と、村の人たちは、ささやきました。     3  春子は、ことし十九になりました。  ふっくりと色白で、目もとのあたりは、ひいおばあさんに、よくにています。  けれど今、このむすめは、古い家に、たったひとりで暮らしていました。親も兄弟もありません。一時、あんなに大勢いた長吉さんの子孫は、戦争で死んだり、病気で死んだり、都会へ行ったまま帰らなかったりで、最後に残ったのは、なんと、春子ひとりでした。  去年、長い間病気で寝ていたお母さんと死別したあと、春子は、家のまわりの小さい段々畑で、ねぎやらキャベツやらこしらえて、暮らしていました。  たくさんの不幸に泣いたあとも、このむすめは、ほがらかでした。まだ、とても若かったから。そして、今の春子には、うれしい日が近づいていましたから。  この家に、おむこさんが来ることになったのでした。それは、同じ村の、お百姓のむすこでした。ひとりぽっちの春子のところへきてくれるその若者は、元気で、心のやさしい人でした。  結婚式の朝、春子は、暗い大きな台所にすわって、そっと、あのお皿をながめました。今、春子の肉親は、お皿の鶴だけだったのです。  春子は、よくおぼえています。誰が死んだときに、どの鶴がふえたかということを。春子は、自分の知っているかぎりの鶴を一羽一羽ゆびさして、そっと呼んでみました。これは、お母さん、これはお父さん、これは、ひいおばあちゃん……すると、春子は自分も、このお皿の中に、すいこまれそうな気がして、くらくらしました。鶴のはばたきと、鳴き声が、お皿の中からわきあがってくるような気がしました。 「うわああ……」  思わず、春子は、両手で耳をおさえました。  このとき、お皿は、床に落ちて、けたたましい音をたてて割れました。  一瞬、春子は、目をつぶりました。それから、こわごわ目をあけたとき、春子の足もとで、たしかな、鳥のはばたきが聞こえたのでした。  鶴でした。あたり一面、みごとな丹頂鶴でした。  鶴たちは、すさまじいはばたきをして、あけ放たれた台所の窓から、ついついと、空へとびたったのです。その数は、お皿の中の、鶴の数と、まったく同じでした。  空は、青く晴れていました。  鶴のむれは、お皿の絵と同じ姿で、東へとびました。峰の森へ向かって、ゆったりととんでいったのです。  ——丹頂鶴が来た——  ——長い間、一羽も姿を見せなかった丹頂鶴が、|群《むれ》をなして来た——  たちまち、この話で、村じょうは、わきたちました。婚礼の朝に、丹頂鶴が、群をなしてとんだことを、人々は、まるで、奇跡のようにおどろきました。 「春ちゃん、あれは、幸運のしるしだよ」 「この家は、鶴の家だ。きっと栄えるよ」  村の人々は、口々に言いました。春子は、うなずきながら、お皿の中の鶴には、やっぱり、ひとつひとつ命があったのだと思いました。そして、お父さんやお母さんや、先祖の人たちみんなが、私の結婚を祝福してくれたのだと思いました。  春子は、あのとき台所に散らばった、青い、せともののかけらを、今もだいじにしまっています。そのかけらを、つなぎあわせると、一枚の青いお皿のかたちになります。模様のまったくない、空の色のお皿に。 [#改ページ]   野ばらの帽子  こんなはがきを片手に、ぼくは、中原さんの山荘をさがしていました。  バスをおりても、むかえの人は、誰もいず、結局、その「簡単な地図」をたよりに、たずねて行くよりほかなかったのです。ところが、その地図は、あきれるほど不正確でした。バス停から、目と鼻の先の、モミの木までの距離が、まるで列車のひと駅分もあるのでしたし、そこから、はるかむこうの曲がり角までが、ほんの二、三分みたいに書いてあるのです。こんなふうでは、どれほど歩いたら山荘につくのか、見当もつきません。このはがきを書いた人は、いったいどういう感覚なんだろうと、ぼくは、さっきから、はらをたてていました。  その山荘には、これからひと夏、ぼくが勉強を教えるはずの中原雪子さんという少女と、そのお母さんが住んでいるのです。  山の別荘へ、住みこみの家庭教師——この仕事を、紹介されたとき、ぼくは、|有頂天《うちようてん》になりました。これは、すてきだぞと思いました。教える子どもは、中学生ですから、大して苦労はありません。そのうえ、三食つきで、かなりいいてあて[#「てあて」に傍点]をくれるというのです。ぼくは、読みたい本を、どっさりリュックに入れ、スケッチブックや、ギターまで持ちました。遊びに行くんじゃないぞと、自分に何度も言いきかせながら、それでも、口笛は、止まりませんでした。ああ、山へ行くのは、何年ぶりでしょうか。  けれど、バスが、山の停留所に、ぼくひとりを下ろして走りさったとき、そして、そこに、人っ子ひとりいないのを知ったとき、ぼくは、へんに心ぼそくなりました。  時間は、午後の三時。風がざわざわと木の葉をゆすって、ま昼の山は、うそのように静かでした。  ぼくは、バス停で、しばらく待ちましたが、むかえの人など、来るようすもないので、地図をたよりに、のろのろと歩きはじめました。少し進んでは立ち止まり、また歩いては首をかしげ、そして、どうやらやっと、地図にある雑木林に出ました。林の中に、地図のとおりのほそい道が一本続いています。ぼくは、ほっとして、その道にはいりました。  と、そのとき、右手の林の奥に、ちらりと、人かげが見えたのです。 (おや)  ぼくは、目をこらしました。  どうも、子どもらしいのです。大きなかごをぶら下げて、いかにも慣れたようすで、ぶらぶらと歩いています。おつかいの帰りに、ちょっと、道草をくっているといったようすです。やがて、その姿は、林の中からとび出すと、ぼくの三十メートルほど先に、ひょっこり出ました。そして、むこうへ、ずんずん歩きはじめました。  大きな帽子の少女でした。  そのうしろ姿を見たとたん、ぼくは、吹きだしそうになりました。 (まるで、帽子が歩いて行くみたいじゃないか)  まったく、少女のむぎわら帽子は、とほうもなく大きくて、そのつばには、白い花が、どっさり飾ってあったのでした。いいえ、飾ってあるというより、満載してあったのです。まるで、南の国の、カーニバルの帽子のように。  その花は、全部、野ばらでした。  野ばらを満載した帽子の下から、長いおさげが二本、すべすべと、腰のあたりまで届いています。デニムのズボンと、白いソックスの間に、ほそい足首がのぞいています。たぶん、都会の少女でしょう。としは、十三か四……そのとたん、ぼくは、あっと思いました。 (これはたぶん、中原雪子さんだ)  ぼくは、いそいで、地図をのぞきました。すると、この一本道のつきあたりが、中原邸ということになっています。不正確な地図ですから、距離は、どれほどかわかりませんが、ともかく、この林の奥に、山荘があるのは、たしかです。 (なるほど、それじゃ、あれは、たしかに雪子さんだ。あのあとをついて行けばいいんだ)——ぼくは、すてきな案内嬢のあらわれたことを、うれしく思いました。  少女と、ぼくの距離は、やっぱり、三十メートルです。少女は、うしろに、ぼくがいることに、少しも気づいていないらしく、すたすたと歩いて行きます。竹で編んだ、四角いかごから、たくさんの青りんごがのぞいています。たぶん、雪子さんは、お母さんに言いつけられて、おつかいに出たのでしょう。きょうから、先生が見えるのだから、どっさり果物を買っておいでと言われたのでしょう。ぼくは、山荘のベランダで、早く、あのりんごをごちそうになりたいと思いました。  ところで、このへんで、そろそろ少女に、声をかけるべきかもしれません。  が、どうしたわけでしょう。いつになく、ぼくは、気おくれがするのでした。ちょっと声をかけるという、このなんでもないことが、きょうにかぎって、ひどく勇気がいるように思えるのでした。もし、少女が、一度ふりむいてくれたら、ぼくも、にっこり笑って、「やあ」と、言えるのですけれど。 「君、中原雪子さんでしょ」と、きがるに声をかけられるのですけれど——  少女は、けっして、ふりむきません。まっすぐ前をむいて、まるで、兵隊の行進みたいに、とっとと進んで行くのです。  ぼくは、この雪子さんの顔つきまで想像できました。  花飾りの帽子をかぶって、色の白い、黒目がちの、ちょうど、ローランサンの絵のような少女像が、胸にうかびました。  それにしても、山荘までは、なんと遠いのでしょうか。もうそろそろ、そのへんに、しゃれた赤い屋根でも、見えてきそうなものですが、しっとりとしめった林の一本道は、行けども行けども終わらないのです。  やがて、ぼくは、じれったくなって、少し足を早めてみました。  すると、どうでしょう。少女も、足を早めるのです。ぼくが、もっと急げば、少女も急ぎます。  たっ、たっ、たっ……ふたりの足音が、大きくひびきました。  あきらかに、少女は、うしろを意識していたのです。ひょっとしたら、ずっと前から、ぼくのことに気づいていたのかも知れません。それなのに、一度もふりむかないのは、よっぽど恥ずかしがりなのでしょう。  道は、しだいに、ほそく、けわしくなりました。ぼくは、ときどき、つる草に足をとられてころびそうになったり、鳥のけたたましい鳴き声に、どうかするほどおどろいたりしました。 (こんなところに、山荘があるんだろうか)  ぼくは、ひょっと、そう思いました。そして、このとき、はじめて気がついたのです。この人は、中原雪子さんではないのかもしれないと。ぼくは、勝手に、人ちがいをして、知らない人のあとを、長い間追いかけていたのかもしれないと。  ぼくは、やっと、ふりしぼるような声を出しました。 「あのう……もしもし」  すると、とつぜん、少女は、ものすごい勢いで、かけ出したのです。かごの青りんごが、二つ三つ、ごろごろと、ころげ落ちました。長いおさげが、二本のふりこのようにゆれました。少女は、まるで、猟犬に追いかけられたうさぎのように、ただもう、めちゃくちゃに走って行くのです。  ぼくは、あっけにとられてしまいました。が、すぐに、やっぱり、かけ出しました。 「こわがらなくたって、いいんだよー、ねえ、ねえ」  ぼくは、大声をあげて、少女を、追いかけて行ったのです。 「おーい、ただちょっと、道を教えてほしいんだよー」  けれど、ぼくと少女のあいだは、みるみる離れて行き、ほそい道の奥に、野ばらの帽子が、ぽつんと見えるだけになりました。白い帽子は、木々の間を、まるで、一ぴきのチョウのように、ひらひらと遠ざかって行きます。 「あきれたもんだ」  ぼくは、立ち止まって、あらい息をしました。  けれど、やっぱり、少女のあとを追うよりほかありませんでした。バス停までひきかえそうにも、もう陽がかげりかけているのですから。こんなところで、夜をむかえるわけにはゆきません。あの子のあとについて行けば、山小屋とか、炭焼小屋とか、ともかく、人のいるところに行きつけるはずです。ぼくは、よろよろと歩き出しました。  野ばらの帽子は、まだ見えます。ずっとずっとむこうに、白い点のように。 (まだ追いつけるぞ)  ぼくは、足を早めました。  ところが、しばらくしますと、その白い点が、ぼーっとにじんで、ふたつに見えてきました。 (…………)  ぼくは、目をこすりました。  すると、白い点は、三つあるのです。 (お、おかしいぞ)  立ちどまって、じっと目をこらすと、今度は、四つ、五つ、六つ……  思わず、ぼくは、かけ出しました。これはてっきり、野ばらの帽子をかぶった少女が、どこからか、おおぜいとび出して来たんだと思いました。  ぼくが、近づけば近づくほど、帽子の数は、ふえて行きます。ぼくは、もう、目が、ちらちらしてきました。 「おーい、ゆきこさーん」  走りながら、ぼくは、大声をあげたのです。  すると、みるみるうちに、ぼくのゆくては、白い野ばらの花ざかりになりました。  …………………………  いつの間にか、ぼくは、野ばらの森の中に迷いこんでいたのです。  そこには、帽子の少女など、ひとりもいませんでした。  静かです。あまい、花の匂いがします。生きものといったら、ぼくひとりだけ…………けれど、とつぜん、どこからか、こんな声が聞こえてきました。 「おかあさん、こわかった。だれかが、あとをつけて来たのよ」  ぼくは、きょろきょろあたりを見まわして、その声が、すぐそばの密集したしげみの中から聞こえているのだとわかりました。そこで、自分も中にはいろうとしましたが、たちまち、ばらのトゲにひっかかれて、きずだらけになりました。  すると、しげみの奥から、また、こんな話し声が聞こえます。 「それ、どんな人? 鉄砲持ってたかい?」 「しらない。あたし、一回も、うしろ見なかったもの」  なんだか、妙な感じです。  ぼくは、目をこらして、ばらのしげみの中を、じっと、のぞきました。すると……|幾重《いくえ》にもかさなった葉のすき間から、白い生きものが見えました。動いています。二ひきです。 (鹿だ!)  ぼくは、とっさにそう思いました。白いめすの鹿が二ひき——たぶん、母鹿と、むすめ鹿です。そして、むすめの鹿は、頭に、野ばらの帽子を、ちょこんとのせているのでした。  ぼくは、まぼろしを見ているような気がしました。  このとき、母鹿の目と、ぼくの目が、カチリと出会いました。すると、母鹿は、 「どちらさまで?」と、言ったのです。  たしかに、鹿が、そう言ったのです。ぼくは、一瞬、ことばをわすれた人間のようになりました。ただもう、目だけを開けるだけ大きく見張って、あらい息をしていました。すると、母鹿は、もう一度聞きました。 「どちらさまで?」  その声は、りんとしていました。さすがに、鹿という動物は、態度がりっぱです。ぼくは、すっかり、どぎまぎしてしまいました。 「あのう……ぼくは、家庭教師なんだけれど、それで、道をまちがえて……」  すると、母鹿は、考えぶかげにたずねました。 「家庭教師さんといいますと、いわゆる先生ですか」 「ええ、まあ」 「そうですか。それは、ちょうどよかった」 「はあ?」  ぼくが、きょとんと聞きかえすと、母鹿は、ゆっくりと、こんなことを言いました。 「ついでに、うちのむすめにも、教育をしていただけないでしょうか」  これを聞いて、ぼくは、あわてました。 「いや、鹿のむすめさんの教育なんて、ぼくには、とてもとても。それに、ぼくは、これからすぐ、中原さんという家に行かなくちゃならないんです」  けれど、鹿の奥さんは、とても熱心でした。 「どうか、ほんの二、三日。いいえ、一日でも、半日でもいいのです。この子にひととおりの教育をしてください。そうしたら、ちゃーんとお礼をいたしますから」 「お礼?」  ぼくは、少し、心が動きました。 「ふうん。いったい、何をくれるの?」  すると、母鹿は、おごそかな声で、 「帽子の魔法を、お教えしましょう」と、言いました。  ぼくは、(はーん)と、思いました。 (なるほど。あのむすめの鹿は、さっきまで、野ばらの帽子をかぶって、少女に化けていたんだ。すると、ぼくが、あの帽子をかぶったら、何になれるんだろう)  ぼくは、急に、わくわくしてきました。 「それじゃあ、しばらく、家庭教師になりましょう。だけど、一体、何を教えたらいいんだろう」  すると、母鹿は、ゆっくりと、こう言いました。 「読み書きと、計算と、それからほら、例の常識というのを教えてやってください」 「常識?」  ぼくは、目をパチパチさせました。 「そう。たとえば、あいさつの仕方、お客の迎え方、手紙の書き方、ごちそうのすすめ方、贈り物の贈り方……それから……」  ぼくは、少しうんざりして、とちゅうで、さえぎりました。 「鹿が、そんなことおぼえる必要ないと思いますがね」  すると、母鹿は、声をおとして、ぽそりと言ったのです。 「いいえ、この子は、もうすぐ人間のおよめさんになるんです」 「…………」 「そもそも、私が、帽子の魔法を、この子に教えたのがいけなかったのです。この子は、野ばらの帽子をかぶって、人間の姿で、山を歩きまわるようになりました。そのうち、猟師のせがれとすっかり仲良くなりましてね。もうすぐ、婚礼をあげることになりました」 「なるほど」  ぼくは、まじめな顔で、うなずいてみせました。母鹿は、続けます。 「わたくしども、鹿は鹿でも、白雪とよばれまして、それは、高貴な生まれなのです。昔は、この山にも、ずいぶん仲間がいましたが、野犬に追われたり、人間にうちとられたりして、今では、ふたりだけになりました。わたくしたち、最後の白雪なのです。こんな所に、かくれていますのも、ばらのトゲで、身を守っているのです」 「なるほど、野ばらのとりでか。これなら、うっかりふみこめないね。でも、ぼくは、中に入れてもらえるでしょう?」 「はい。うらがわへ、おまわりください。ちょうど、ばらの木一本分のすき間がありますから、そこからおはいりください」  ぼくは、うなずいて、しげみのまわりをまわりました。すると、ちょうど反対がわに、ほそいすき間があって、そこが入り口なのでした。ぼくは、そこから、もぐりこみました。  しげみの中は、がらんどうでした。ばらの木々に、まるく囲まれた中に、部屋ひとつ分ぐらいの空間があり、そこに、まっ白い鹿が二ひき、すっくと、立っていました。 「ほう……」  ぼくは、目をほそめました。ふと、古い油絵の中にとびこんだような気がしました。  今思えば、このとき、すでにぼくは、白い鹿の魔術にかかっていたのでしょう。なぜって、ぼくは、このとき、中原さんの山荘のことを、ケロリと忘れていたからです。そして、この鹿のむすめこそ、雪子さんだという気がしたのです。自分は、はるばる東京から、鹿の家庭教師になりに来たのだと思えたからです。  鹿の雪子さんは、うるんだ大きな目をしていました。それにくらべると、母鹿の目には、冷たいかげのようなものがあって、少し気になりましたが、それも、かわいいむすめを、人間のおよめさんにやってしまうなげきのためなのだと思えました。  ぼくは、草の上にすわって、青りんごをごちそうになりました。おなかがすいていたので、一度に五つも食べました。  それからあと、ぼくが、いったい、どれほどの時間、鹿といっしょにくらしたのか、いったい、何を食べて生きていたのか、そのへんのことは、どうも思い出せません。  リュックの中に、ぼくは、色々な物を入れてきました。何冊かの学習参考書、少年少女向けの読みもの、植物図鑑、地図帳、ギターの楽符、スケッチブックと絵の具、パズルとちえの輪。それらは、みんな、役にたちました。  世の中のことを、何ひとつ知らない鹿のむすめを、人間なみに教育する努力はたいへんでしたが、雪子さんは、仲々ものおぼえがよくて、ひととおりの読み書きと計算は、すぐ、のみこんでくれました。  あるとき——母鹿が、どこかへ出かけた留守に、ぼくは、雪子さんに、彼女の“婚約者”のことを、たずねてみました。 「いったい、どんなひと?」  すると、雪子さんは、白い耳を、ピクンと動かして、それはうれしそうに、 「あけがたのお月さまみたいなひと」 と、答えました。それから、うっとりと遠くをながめて続けました。 「はじめて会ったのは、私が、お父さんに会いに行った帰りだったわ」 「ほう、お父さんがいるのかい」 「そう。私のお父さんは、村の小学校の理科室にいるの。そりゃりっぱなつの[#「つの」に傍点]をして、ガラスの目玉で、じっと立っているの。でも、なんにも言わないし、息もしていないわ。それでもよく、私、人間の姿して、お父さんに会いに行くのよ。その帰りの道で、ばったりあのひとに会ったの。霧が深かったから、いきなり鼻をつきあわせるまで、ちっとも気がつかなかった。あたし、とびあがるほどびっくりしたの。もう少しで、帽子をおっことすところだったわ。あのひと、いきなり、こう言ったの。  ——このへんで、猟師を見なかったかい?——  あたし、黙ってたわ。そうしたら、あのひと、一息に、  ——毛皮の上着を着た男に会わなかったかい。ぼくの父さんなんだ。猟に出かけたまま、ずっと帰らないんだ——  そのとき、あのひとの目、何だかとても光っていてこわかったから、私、少しあとずさりしたの。そしたら、あのひと、急ににっこり笑って、  ——こわがらなくていいよ——って言ったわ。私は、なんだかとても恥ずかしくなって、  ——さがしておくわ——って答えて、どんどん走ったの。でも、あのひとの、にっこり笑った顔が、いつまでも胸に残って、なんだか苦しいほどだった……  次に会ったとき、  ——お父さんは、みつかった?—— って、私がたずねたら、あのひと、悲しそうに首をふって、  ——気長にさがすさ——って言ったの。たばこすってたわ。すてきなにおいだったわ。それから私たち、よく山で会ったの。はじめ、あたしは、ちょっと人間をからかってるつもりだったの。それなのに、気がついてみたら、どうでしょう。とうとう、およめさんになるやくそくまでして……」  雪子さんは、ふふっと、泣き笑いのような目をしました。 「それじゃ、その人は、このかくれがを、まだ知らないんだね」  雪子さんは、うなずきました。 「きみが鹿だっていうことも、知らないんだね」  雪子さんは、またうなずきました。 「でも、それを、ずっとかくしておくことが、できるだろうか。野ばらの帽子をかぶって、人間の姿でおよめに行っても、いつか、ほんとうのことが、ばれてしまわないだろうか」  すると、雪子さんは、 「それは、だいじょうぶ」と、きっぱり答えました。 「お母さんが、とくべつの魔法で、あたしを、完全に人間に変えてくれるから」 「そう、お母さんは、たいした鹿なんだねえ」 「そう。白い鹿は、みんな魔力を持っているけれど、お母さんのは、とびきり強いわ。だから、私たち、きょうまで生き残れたのよ」  そう言ってから、雪子さんは、ふと声をひそめて、こんなことを言いました。 「でもね、先生、あなたは魔法のことなんか考えないほうがいいわ。魔法を使ってみたいなんて、けっして思わないほうがいいわ」  雪子さんの声は、とても、しんけんでした。 「なぜさ」 「なぜって……」  けれど、このとき、雪子さんは、口をつぐみました。母鹿が、音もなくもどっていたのです。そして、はっとするほどきびしい顔で、雪子さんをじっと見ていたのです。  それからぼくは、雪子さんに、電話のかけ方や、あいさつの仕方を教えました。どくだみの葉が、おできの薬になることや、かぜをひいたら、たまご酒をのむといいことなんかも教えました。すると雪子さんは、お礼にこんなかわいいおまじないを教えてくれました。花びらを、てのひらいっぱいにのせて、それに、ふうっと息をかけるのです。 「ね、そうすると、小さい花ふぶきができるでしょ。それがおわらないうちに、願いごとをするの。花びらが、すっかり地面に落ちるまでに言えたら、その願いは、きっとかなえられるの。あたしは、良いおよめさんになれますようにって、いつも願っているのよ」  そうして、ある日、雪子さんは、とうとう、人間の村へ、およめに行きました。帽子のかわりに、たくさんの野ばらを髪にかざって、もうけっして鹿にもどることのない、美しい花嫁姿で、するりと、ばらのとりでをぬけて行ったのです。  ぼくは、母鹿とふたりきりになりました。  母鹿は、いつもの礼儀正しい口ぶりで、 「ごくろうさまでした」と、言いました。その目は、ガラスのようでした。ぼくは、このとき、ちらりと、この鹿のつれあいを思いうかべました。村の小学校で、はくせいになっているという、雄じかのガラスの目玉を……。そうしたらなんだか、ぞっとしたのです。急に、ぼくは、山を下りたくなりました。 「ぼくは、これで失礼することに……」  そう言いながら、ぼくは、自分のリュックをひきずって、出口の所まで行きました。けれどこのとき、うしろで、母鹿の声がりんとひびいたのです。 「では、帽子の魔法をお教えしましょう」  ぼくは、どうも、へんな胸さわぎがしましたから、 「魔法は、もうけっこうです。じゅうぶん拝見しました」 と、断わりました。が、母鹿は、首をふって、 「いいえ、はじめのおやくそくです。あの帽子をかぶっていただかなくては、こちらの気がすみません」 と、言うのです。  それもそうかなと、ぼくは、思いました。それから、こんなふうにも考えました。今、簡単な魔法をひとつおぼえておけば、これからなにかと便利だろうと。  野ばらの帽子は、ぼくの足もとにころがっていました。ぼくはかがんで、それを、ひろいあげました。 「さ、どうぞ、帽子をかぶってください」と、母鹿が、言いました。ぼくは、そっと帽子を頭にのせました。  すると、母鹿は、ぼくの前を、行ったり来たりしながら、ふしぎな|呪文《じゆもん》をとなえました。長い呪文でした。ぼくは、あまい野ばらのかおりに包まれて、立ったまま、とろとろと眠りました。  ………………  肩のところで、ちちちと鳴く鳥の声で、ぼくは、はっと目をさましたのです。  目の前に、白い鹿がじっとすわっています。ばらの葉が、キラキラ光りながらゆれています。あたりは、前と少しも変わりません。ぼくは、両手を伸ばして、あくびをしようとしました。そしてそのとき、ぎょっとしたのです。自分の体が、へんにかたくなっていたからです。なんだか、棒のように。  ぼくは、何か言おうとしましたが、声が出ませんでした。もがこうとしましたが、体が動きませんでした——  ああ、ぼくは、なんと、ばらの木になっていたのです。  ちょうど、とりでの出口をふさぐ、一本の木に変えられてしまったのです。 「さあ、これであなたも、鹿を守る野ばらになったのです」母鹿は、おごそかにこう言いました。  それから、長い長いひとりごとがはじまりました—— 「あなたは、だまされたとお思いでしょ。でも、人間が、どんなふうにして鹿をだましたか、あなたは知っていますか。鹿笛を吹いて、おびき出すのです。  鹿笛は、め鹿の鳴き声にそっくりで、秋の晩なんか、あれが聞こえてくると、りっぱなつのの若鹿が、ふらりと月あかりの中に出て行きます。そこを、たちまち、うちとられてしまうのです。私の父がそうでした。それから、兄も、いとこも、つれあいも、そうでした。そんなふうにして、人間は、鹿をだましたのです。  一度に、たくさんの鹿をつかまえるとき、人間は、おおぜい組になって、山を遠まきにしました。女も子どもも、犬までが猟師の仲間入りをしました。そうして、大きな半円をつくり、鹿のむれを、じりじりと、がけっぷちに追いつめていったのです。  そんなことが、何度もありました。たくさんの鹿が、まるで白い疾風のように、山道をかけぬけました。人間のどよめきが、それを追いました。私たち白雪の仲間は、それでずいぶん減りました。  いつでしたか、やっぱりそんな鹿狩があって追いつめられたとき、私は、むすめと自分を守るために、とっておきの魔術を使ったのです。私たちをとりかこんでいた人間たちを、ひとり残らず、野ばらに変えてしまったのです。そうして、私たちは、その中に、かくれ住むことにしたのです。ここにある野ばらは、みんな、そのときの人間です。猟師だけではなく、村の男も女も子どももいます。今もときどき、その家族が、ゆくえをさがしにやって来ます。  これが、私の、精いっぱいの、人間へのおかえしでした」  ぼくは、おどろきのために、ぶるぶるふるえました。そして、ふるえながら、こう思いました。 (それでも、ぼくまで野ばらに変えることはないじゃないか。ぼくは、鹿をつかまえようなんて、思ってもみなかった。それどころか、雪子さんの教育までしてやったのに)  すると母鹿は、ぼくの心をすっかり読んで、幾度もうなずきました。 「ええ。あなたは、むすめの教育をしてくださいました。そして、むすめが、およめに行くところを見届けてくださいました。だからこそ、私は、あなたを木にしてしまったのです」 「…………」 「あなたは、むすめの秘密を知っているたったひとりの人間だからです。そう、あの子が鹿だということを、ひとりでも知っている人がいたら、あの子のしあわせは守れません。私は、むすめの秘密を完全にするために、あなたを、野ばらに変えたのです。これが、私の、最後の魔法です」  そう言うと、母鹿は、静かに目をとじました。  それから、長い時間が過ぎたのです。  クモが、銀の糸を一本、ばらの枝に、ゆっくりと張りわたし、また、もどってきて、美しい|幾何《きか》模様を作ってゆくのを、ぼくは、無心に見つめていました。カタツムリが、ほんの数ミリのテンポではって行くのを見送り、アリの長い行列を、数えてみたりしました。  幾度も日がのぼり、幾度も、夕暮れがきました。黄色い月がふくらんだかと思うと、ナイフのように、ほそくとぎすまされました。何十年も、ぼくは、そうして立ちつくしていたような気がします。 「おい君、そこで何してるんだ」  ある日、とつぜん、ぼくは、人間の声を聞きました。 「さっきから、そんな所につっ立って、考えごとでもしてるのかい」  土地の者らしい、若い男でした。それでも、ぼくは、じっと動きませんでした。ばらの木は、動くことができないのですから。すると、男は、ぼくの肩を、ポンとたたいたのです。そのとたん、ひざが、がくんと曲がって、ぼくは、へなへなと地面にくずれました。 「いったい、どうしたんだ?」  男は、ぼくの顔をのぞきこみました。  ぼくは、両手を地面についたまま、あえぎあえぎ、いちぶしじゅうを話しました。 「そりゃ、まぼろしだろう。ずっと昔、この山にいた白雪のまぼろしをみたのさ」と、男は言いました。 「だって、この帽子を……」  ぼくは、手を頭に上げましたが、そこに、野ばらの帽子はありませんでした。それどころか、白い鹿も、ばらのしげみもなく、あたりは一面、夕暮れの雑木林でした。男は、大口をあけて笑いました。 「道に迷ったんだろ? どこへ行くつもりだったんだね」 「ええと……中原さん……」  ぼくは、ポケットに手をつっこんで、くしゃくしゃのはがきを取り出しました。男は、それをのぞきこんで、 「ああ、これは、もうひとつむこうの森だよ。君、さっきバス停をまちがえたんだろ。まちがえて、ひと停留所早くおりたんだよ」  急に、ぼくは、どうしようもないほど恥ずかしくなりました。いつもの、そそっかしいくせが、とうとう、こんなまちがいをおこしてしまったと思いました。けれど、男は、こう言ってくれました。 「ここからなら、あるいて三十分ほどだ。明るいうちに着けるよ。案内しようか」  男のあとについて林の道を歩きながら、ぼくは、道に咲いている山あじさいの花びらをむしっていました。そして、いつか雪子さんから教えてもらったおまじないを、そっとしてみました。小さな青い花ふぶきをつくるとき、ぼくは、ほんものの中原雪子さんのことを考えました。雪子さんは、色白で、大きな目をしているでしょうか。すんなりと長い足をしているでしょうか。そして、やっぱり素直な、やさしい少女でしょうか……。ぼくはふと、人間の世界へ行った鹿の雪子さんに、これから再会するような思いがしました。  長い夏の夕暮れでした。 [#改ページ]   て ま り     1  お姫さまは、おやしきの一番奥のへやで、絹のおざぶとんにすわっています。  髪は、ふっさりとして、ほおは、うすもも色。もし、大声をあげて泣いていなかったら、まるで、人形のようでした。  けれど—— 「ああん、ああん、うわあ、うわあ、うわあ——」  お姫さまの泣き声は、大きくてけたたましくて、そこらのいたずらっ子と少しもかわりません。涙だって、真珠ではなくて、ただの水でしたし、その涙を両手でぬぐうしぐさも、長屋のはなたれ[#「はなたれ」に傍点]とおなじです。それなのに、ああ、どうしてお姫さまだけは、友だちと、にぎやかに遊べないのでしょうか。ずっとさっきから、お姫さまは、それを怒って泣いていたのでした。 「おきくぅー、おふじぃー」  お姫さまは、いつもやって来るお遊び相手の名まえをよんでみました。おきくもおふじも、たくさんの女の子の中から、むずかしい試験のすえに、やっとやっと選ばれた、よりぬきのお遊び相手でした。お姫さまは、このふたりの友だちと、毎日、ままごとや人形ごっこをしました。  ところが、この、おきくとおふじが、ぱったり来なくなって十日たちます。  原因は、はしかでした。  あのやっかいな子どもの病気が、国じゅうに広まって、おきくもおふじも、寝こんでしまったのです。|乳母《うば》は、お姫さまに病気がうつってはたいへんと、おやしきに子どもの出入りをとめました。遊び相手のいなくなったお姫さまは、めずらしいおもちゃにも、おいしいお菓子にもあきてしまい、かんしゃくをおこして、朝からずっと泣いているのでした。  その声は、庭の|築山《つきやま》や、うえこみをこえ、長いわたりろうかのはしからはしまでひびきわたりました。これには、乳母もこまってしまい、なだめたりすかしたりしたすえに、首をふりふりへやを出て行きました。 「泣きつかれて、おねむになられるのを待つよりほかはございません」と。  けれど、お姫さまは、おねむになるどころか、ますますはげしく泣き続けました。 「ああん、ああん、うわー、うわー」  泣きながら、お姫さまは、この間みた夢のことを、ひょっと思い出しました。  いちめんの菜の花畑で、たくさんの友だちと遊んだ夢でした。おきくもいました。おふじもいました。それから、知らない子どもが、いっぱいいっぱい! けれど、重たいぽっくりをはいたお姫さまは、かけっこでも、鬼ごっこでも、すぐ負けてしまうのでした。そこで、片足をあげて、 「あーした天気になあれ」 と、右のぽっくりをとばしました。それからまた片足をあげて、 「あーした天気になあれ」 と、左のぽっくりをとばしました。白いたびの足で、畑の土をふむときの、なんという快さ……  お姫さまは、泣きじゃくりながら、あのときの菜の花の黄色を、うっとりと胸にうかべました。  そのときです。とつぜん、庭の方から、こんな声が聞こえてきました。 「あんた、どうして泣いてるの」  お姫さまは、肩をぴくっとさせました。それから、うす目をあけて、指の間から、そっとのぞいてみました。  すると、いったい、どこからもぐりこんで来たのか、ねこやなぎのかげに、女の子がしゃがんで、こっちをじっと見ていました。 「おきく?」  泣きじゃくりながら、お姫さまは聞きましたが、返事がないので、今度は、 「おふじ?」と、聞きました。すると、その子は、 「あたい、おせん」と、ふとい大きな声をあげたのです。 「おせん……」  お姫さまは、首をかしげて、そんな子は知らないなと思いました。そこで、とっさに、りんとした声で、 「こっちへいらっしゃい」と、言いました。  すると、ねこやなぎのうしろから、大きなてまりが、ころころところがってきました。そして、そのあとから、 「ほーら、いいまりだろ」 と、さけびながら、おせんがかけて来たのです。  色の黒い子どもでした。つんつるてんのかすりの着物を着て、髪は、うしろでひとまとめに結んでいます。わらぞうりを、ぴたぴた鳴らしながら、おせんは、お姫さまの前まで来るともう一度、 「いいまりだろ?」と、言いました。  それは、色とりどりのもめん糸でかがった、大きなてまりでした。その上、しんに鈴がはいっていて、ころがすたびに、りんりんと、いい音をたてるのです。おせんは、そのてまりを、両手にかかえると、 「あんたも、こんなの持ってる?」 と、聞きました。お姫さまは、目をまんまるにして、だまっていました。  お姫さまのてまりは、つややかな絹糸でかがってありましたけれど、あんなにたくさんの色は使っていません。いろんなもようのまりが、十も二十もありますけれど、しんに鈴のはいったのは、ひとつもありません。お姫さまは、ずいぶん長い間だまったあと、そっと首を横にふりました。すると、おせんは、幾度もうなずきました。 「ああ、それでさっきから泣いてたんだね。あたいもそうだったよ。ずいぶん長いこと、まりがほしいって泣いたんだ。それでやっと、ばあちゃんが、これこしらえてくれたんだ。となり近所まわりあるいて、はた糸ののこりを集めて、つなぎあわせて、やっとこしらえてくれたんだ」 「はた糸ののこり……」  お姫さまは、このむずかしいことばを、そっとくり返してみました。それから、もう、たとえようもないほどめずらしいものを見るように、まじまじとおせんのてまりを見つめて、 「それで、こんなにきれいなの?」と、聞きました。  すると、おせんは、にっと笑って説明しました。 「そ。村じゅうの織物の糸が、ぜんぶはいってるんだもの。この青は、あたいの着物、この赤が、あかんぼのわたいれで、この黒は、となりのばあちゃんの前かけ。こっちのむらさきは、炭屋のおかみさんの着物で、今は、ふとんになってるよ」  おせんは、たのしそうに笑いました。ところが、お姫さまには、このわけが、どうもわかりません。はた織りなど、見たこともないお姫さまには、貧しい人たちが、はたにかける糸ののこりまで集めて、子どものてまりをかがるなど、想像もつかないのでした。お姫さまは、長いおかっぱをゆすって、 「はた織りって、どんなもの?」 と、たずねました。すると、おせんは、目を輝かせて、こう言ったのです。 「今、見せてあげるよ」  それから、いきなり、てまりをつきはじめました。  みがきあげられたおやしきのえんがわで、おせんのてまりは、よくはずみます。  おせんは、かすれた声で、お姫さまの知らないてまり歌を歌いました。そして、歌のさいごに、てまりを、ぽんと、自分のたもとに入れたのです。そのたもとを、おせんは、両手でおさえて、こう言いました。 「のぞいてごらん」  お姫さまが、ぽかんとしていると、おせんは、ふくらんだたもとを、まるで、生きもののようにだいじにかかえて、お姫さまのそばへにじりよると、 「ほら、見てごらん、はた織りだよ」と、ささやきました。  お姫さまは、おせんのたもとの中を、のぞきこみました。  すると、どうでしょう。  おせんのかすりのたもとの中で、小さな小さな女の人がひとり、とんからとんから、布を織っているのでした。色とりどりのもめん糸が、はたにかかっていました。赤や緑や黄やむらさきや、あいや、白や、黒や、茶や——。それらの色糸が、美しく波うちながら、すばらしい|綾織《あやお》りの布地をつくってゆくのです。  はた織りの女の人は、たすきをかけていました。 「あのひと、だれ?」 と、お姫さまが聞くと、おせんは、にっこり笑って、 「あたいの母ちゃん」と、答えました。  それから急に、たもとを、はげしくふりました。  すると、女の人も、はたも、布地も、めちゃめちゃになりました。 「ああだめ、みんなこわれてしまう」  お姫さまが、そうさけんで、おせんの腕をおさえたとき、たもとの中には、てまりがひとつ、くるくると、こまのようにまわっているだけでした。お姫さまは、泣き出しそうな顔で、 「消えちゃった」と、言いました。  てまりは、おせんのたもとからとび出して、しゃらんと、えんがわに落ちました。  お姫さまは、ほおを赤くそめて、そのまりをかかえると、 「こんど、私にやらせて」と、さけびました。  おせんはうなずいて、また、てまり歌を歌います。歌にあわせてお姫さまがつくてまりは、しゃんしゃんと、なりました。歌のおわりに、お姫さまは、やっぱり、てまりを、たもとに入れました。うすもも色のふりそでのたもとをおさえて、お姫さまは、胸をドキドキさせながら、 「はた織り」 と、おまじないのようにつぶやきました。それから、 「ほんとにあるかしら」と、たよるような目で、おせんを見つめました。 「あるさ。ほーら」  おせんはかがんで、お姫さまのたもとの中をのぞきました。それから、 「ひゃー」 と、とっぴょうしもなく高い声をあげたのです。 「こーんなの、はじめてだ」と、おせんはさけびました。お姫さまが、大急ぎでのぞいてみますと、これはまあ、たもとの中は、菜の花畑なのでした。いちめんの黄色い花々が咲きこぼれて、波うって、たもといっぱい広がっているのです。 「きれい……」  お姫さまは、ため息をつきました。それから、はっと胸をおさえて、 「いつかの夢みたい」と、言いました。  すると、おせんも、はっと胸をおさえて、 「ああ、いつかの夢みたいだ」と、さけんだのです。それから、小さい声で、こんなことを言いました。 「あたいねえ、まえに、ふしぎな夢みたんだ」  おせんは、こんな話をはじめました。  いつでしたか、おおぜいの友だちと、おせんは、天気うらないをしたのです。 「あーした天気になあれ」 と、さけんで、げたをほうりあげるとき、おせんは、足を少しばかり高くあげすぎました。ぺちゃんこのおせんのげたは、まるで、木の鳥のように、ずっとむこうの麦畑までとんでいったのでした。おせんは、片足で、けんけんとびながら、げたをさがしに、畑へはいって行きました。が、広い畑の、いったいどこに、おせんのげたは沈んでしまったのでしょう。さがしても、さがしても、見つかりません。おいしげった麦の中を、おせんは、長いことはいまわりました。  やがて、あたりは、うす暗くなり、 「おせんちゃん、先に帰るよー」 という、友だちの声が、切れ切れに聞こえてきました。 「おせんちゃん、あばー」 「先、帰るよー」  おせんは、泣きたくなりました。けれど、げたが見つからないことには、あしたから、はくものがありません。  どれほどの間、おせんは、畑の中にうずくまっていたでしょう。  やがて、あたりが、ほうっと黄色い光につつまれて、これは、夕暮れの色かしらと思ったとき、おせんのまわりは、菜の花畑に変わっていたのでした。いいにおいのする、黄色い花の中に、ずいぶん長い間、おせんはすわっていたのでした。 (麦畑通りこして、いつのまに、こんなところへきてしまったんだろう)  そう思いながら、立ち上がろうとしたとき、おせんの目の前に、ぽろんと、げたが片方ふってきたのです。 「うわっ」おせんは、とびあがりました。思わず、 「あったー」とさけびました。  けれども、それは、すりへったおせんのげたとは、にてもにつかぬりっぱなものでした。重くて、つややかで、何だか、まぶしいほどきれいで……。そうです。それは、ぽっくりだったのです。  こんなに美しいはきものを、おせんは、はじめて見ました。赤いぬりに、金の花もようが、描いてあるのです。はなおには、ししゅうがあります。その上、かわいい銀色の鈴までついているのでした。  おせんは、胸をドキドキさせながら、ぽっくりに、そっとさわってみました。すると急に、ほしいという思いが、かわきのようにつき上げてきたのです。片方だけでもほしい、いいえ、あの鈴ひとつでもほしいと、おせんは思いました。  そのとき、ずうっとむこうで、 「あーした天気になあれ」 と、それはすみ切った、うぐいすのような声がして、こちらへ近づいて来る足音がしました。 (さがしに来た!)  おせんは、このとき、むちゅうで、ぽっくりの鈴を、ちぎり取ったのでした。それを、右手に、ぎっちりにぎって、ぱっと立ちあがると、いちもくさんで走りました。  おせんは、一度も、ふりむきませんでした。あのぽっくりのぬしが、どんなにきれいなお嬢さんなのか、とうとう見ずじまいでした。そんなことよりも、ぬすみをしたという思いが、おせんの足を、ひどくせきたてたのです。 (いそげいそげ、追っかけて来る)  じっとりと汗をかきながら、おせんは、めちゃくちゃに走りました。  けれど、どうしたことでしょう。菜の花畑は、走っても走っても終わりません。いいえ、走れば走るほど、広がって行くのでした。なんと、地平線まで! 菜の花の黄色は、光の海のようにまぶしく、空には、お月さまが、やっぱり同じ色でゆらんと、うかんでいるのです。  おせんはふと、自分が、ひとところで、足ぶみしているのじゃないかと思いました。すると急に、たとえようもないおそろしさが、わきあがってきました。  ——おせん、おせん——  誰かが、よんでいます。(追いかけて来る、鈴をかえせって追いかけて来るんだ)おせんは、がばっと、花の中にしずみました。その頭の上を、おせん、おせんと、よぶ声が、風のようにすぎて行きます。  ………………  ずいぶん長い間、おせんは、麦畑で、そうしていたのでした。  むかえに来たばあちゃんが、耳もとで、おせんおせんとよぶのを、夢の中で聞いていたのです。 「おせん、こんなところで、どうした」  背中をたたかれて、おせんは、はっと目をさましました。あたりは、とっぷりと暮れていました。 「げた、さがしてた」  おせんは、ぽつりと言いました。 「そしたらなあ、きれいなぽっくりがとんできて……」  おせんは、とろんと、ばあちゃんを見上げました。ばあちゃんは、あきれた顔つきで、 「おまえ、また夢みたろ」と、言いました。それから、頭をふりふり、立ちあがりました。 「さ、はよ帰ろう」  おせんのげたは、とうとう見つからず、おせんは、ばあちゃんの手につかまって、べそをかきかき歩きました。夢の中のぽっくりが、あんまりきれいだったので、片方だけの、すりへった自分のげたは、あんまりみじめでした。  ところが、家へ帰って、あがりがまちに両手をついたとき、ちゃらんと落ちたのは、さっきのあの鈴でした。たしかに、まるい、小さな、銀色の……  おせんは、それを、す早くひろいあげると、胸をドキドキさせながらも、おもてへ行き、ひとりで、とっくりとながめました。 (あたい、夢の中から、これ、持ってきたんだ……)  おせんは、はっきりと、そう思いました。すると急に、この鈴をほしがるおおぜいの友だちや、妹や弟の顔がうかびました。おせんはこれを、誰にも見つからないところに、かくしておきたいと思いました。  ばあちゃんが、てまりを作ってくれると言ったとき、おせんは、鈴を、てまりのしんに入れてくれるようにたのみました。 「こんなりっぱな鈴、どうした」 と、ばあちゃんに聞かれたとき、おせんは、 「おまつりでひろった」と、答えました。  おせんの話が終わったとき、お姫さまは、早口にさけびました。 「私もいつか、菜の花畑の夢をみたのよ。夢の中で、ぽっくりなげたのよ。鈴のついたぽっくりを、あーした天気になあれって、なげたのよ」 「ほんと?」  こんなすてきなことって、あるでしょうか。ふたりの夢と夢が、つながっていたなんて。そして、夢の中の鈴が、このてまりの中にあるなんて。  ふたりは、かわるがわる、お姫さまのたもとの中をのぞきました。 「ね。あのときの菜の花畑」 「そう。あのときの菜の花畑」  ふたりは、顔を見あわせて、にっこり笑いました。     2  それから毎日、おせんは、お姫さまの庭先に遊びに来ました。ときには、へいの破れ目から、ときには、おやしきにはいる荷車の野菜の中にもぐりこんで。  ふたりは、誰にも見つからないように、うえこみのかげで、こっそり遊びました。お手玉、人形、あやとり、ままごと……けれど、いちばんたのしいのは、やっぱり、てまりでした。ふたりは、あのてまりを、かわるがわるついたり、空へ投げ上げたりしました。  投げ上げられたてまりは、高く高くのぼっていき、ひとつぶのほおずきほどの大きさになるのです。そして、今にも雲の中にすいこまれそうになるころ、しゃらんと、かすかな鈴の音が聞こえてくるのです。そのとき、おせんは言いました。 「ほら、菜の花畑が、空から落ちてくる」とか、 「ほら、今度は、はた織りだ」とか。  てまりは、まっすぐ、ゆっくりと落ちてきます。両手を上げて目をとじると、  しゃん、しゃん、しゃん、しゃん と、まるで、空から花がふるように、鈴の音が落ちてきます。 「菜の花が落ちてくるよ、くるよ、くるよ」 と、おせんは言いました。お姫さまは、両手を高く上げました。すると、そのたもとの中に、てまりは、すっぽり落ちるのでした。うすもも色のふりそでのたもとをおさえて、お姫さまは、おせんに言います。 「ううん、今度は、はた織りよ」  それから、ふたりで、そっとのぞくと、たもとの中は、はた織りでした。小さなおせんの母さんが、とんからとんから布を織っているのでした。  お姫さまは、ほほっと、春のように笑いました。おせんも肩をすくめて、くくっと笑いました。  ところが、また幾日かすぎますと、おせんは、ぱったり来なくなりました。えんがわのへりに立って、お姫さまは、くる日もくる日も、おせんを待ちました。そうして、ある日、また泣き出しました。 「おせんー、おせんー」  |乳母《うば》は、そんな子どもを知りません。 「おせんとは、だれのことでございますか」  すると、お姫さまは、泣きじゃくりながら、小さな声で、 「みじかい着物きて、たびをはいていない子ども」 と、言いました。 「たびをはいていない!」  たちまち、乳母の目は、三角になりました。 「それは、身分のひくい子どもです。姫さまは、そんな子どもとお遊びになってはいけません」  すると、お姫さまは、ひっくりかえって泣きました。手足をばたばたさせ、顔は、まっ赤になりました。 「うわあ、うわあ、おせんでなくちゃいやだー」  このとき、お姫さまのほおは、もえるようにあつくなっていました。 (これはいけない)と、乳母は思いました。 (こんなにお泣きになっては、血が頭にのぼってしまう)  そこで、|乳母《うば》は、こしもとに耳うちしました。こしもとはけらいに耳うちしました。けらいは、長いわたりろうかを、すすすーっと、うまやへ急ぎました。  やがて、馬に乗ってけらいがひとり、おやしきの門を出ました。 「おせんという子どもはいないか。おせんはどこじゃ」  けらいは、そう言いながら、町の方へ消えて行きました。  ところが、それから、ものの一時間もたたないうちに、けらいを乗せた馬は、風のようにかけもどって来たのです。 「た、た、た、たいへんでございます。いちだいじでございます」  けらいは、あたふたと、乳母の前へ出ると、報告しました。 「おせんは、はしかでございます」 「はしか!」  乳母は、まっ青になって、棒のように立ちあがり、わたりろうかを走って、お姫さまのへやへ急ぎました。 「姫さま、姫さま、姫さま……」  このとき、お姫さまは、絹のおふとんに寝ていました。まくらもとで、こしもとが、お薬の用意をしていました。そして、はいって来た乳母に、うやうやしく、 「姫さまは、はしかでございます」と、言ったのです。 「とうとう……」  乳母は、ぺたんと、その場にすわりました。お姫さまはまだ、 「おせん、おせん」と、よんでいます。そこで、乳母は、しかたなく言いました。 「おせんもはしかでございます。姫さまと同じ病気で、寝ております」  すると、お姫さまは、ぱっちり目をあけて、 「まあ、同じ病気なの、やっぱり寝ているの」 と、それはうれしそうに笑いました。  それから、十日あと。  やっとはしかのなおったお姫さまは、やっぱり奥のおざしきで、絹のおざぶとんにすわっていました。そばには、やっぱり、はしかのなおった、おきくとおふじが、おだんごみたいな白い顔で、貝のおはじきをいじっていました。  けれど、お姫さまは、その仲間にはいっていませんでした。その目は、さっきから、庭のねこやなぎのむこうを、じっと見ていたのです。あのほそい枝の間から、今にも、おせんの黒い小さな手がのびて、おいでおいでをしそうな気がして、お姫さまはちょっとの間も、目をそらすことができないのでした。  おせんは、ずっと来ません。  乳母は、お姫さまに病気をうつした悪い子どもを、二度とおやしきに入れないようにと、門番や見張りの者に、かたくかたく言いつけたのです。お姫さまが、どんなに泣いても、乳母はけっして、その考えをかえませんでした。 「お姫さまのばんですよ」  うしろで、おふじがよびました。 「とばして」と、お姫さまは、ぶあいそうに言いました。それから、じっと耳をすましました。  お姫さまは、このとき、たしかに聞いたのです。しゃんしゃんという、あの鈴の音を……お姫さまは、空を見あげました。  と、うえこみのむこうから、まるで虹のように美しい弧をえがいて、てまりが——おせんのあのてまりが、とんでくるではありませんか。  お姫さまの顔は、ぱーっと輝きました。思わず立ちあがったとき、またうしろで、おきくが、ゆっくりよびました。 「お姫さまのばんですよ」 「とばして! ずーっとずーっと、とばして!」  お姫さまは、かん高くそうさけぶと、まっ白いたびのまま庭にとび下りて、両手を大きくひろげて、てまりを受けとめました。それから、大きな声で、 「おせんー」と、よんで見ました。  けれど、てまりのあとから、おせんは来ませんでした。  来られるわけがなかったのです。へいの破れ目は、ぴったり閉ざされ、門には、こわい顔の番人が、幾人もならんでいましたから。あのてまりを、おやしきの中へ、力いっぱいほうり投げて、おせんは、帰って行ったのでした。  こうして、おせんのてまりは、お姫さまのてまりになりました。お姫さまは、ひとりになってから、えんがわで、しゃんしゃんと、てまりをつきました。うろおぼえのてまり歌を歌って、さいごに、てまりをたもとに入れました。それからそっとのぞいてみると、たもとの中には、はた織りが見えました。  けれど、今度のはた織りは、少しちがいました。  はたの前にすわっているのは、なんと、小さなおせんなのでしたから。おせんは、てぬぐいを髪にまいて、小さい弟をおぶっていました。そして、ぎごちない手つきで、ぱたりぱたりとはたを織っていました。その姿は、小さなおとなのようでした。  お姫さまは、このとき知りました。  おせんは、もう遊ぶことをやめて、働くことをおぼえはじめているのだと。まりをついたり、菜の花畑をころげまわることはもう、できなくなってしまったのだと。  お姫さまは、てまりを両手でさすりながら、夢の中で、もう一度おせんに会いたいと思いました。 [#改ページ]   長い灰色のスカート  私が八つ、弟が四つでした。  弟の|修《おさむ》は、両手を口にあて、カッコウの鳴き声をまねながら、私の前を歩いていました。白い布の帽子に、|木《こ》もれ|陽《び》がゆれていました。  ポッポー、ポッポー  弟のカッコウは、まるで鳩の声のように聞こえるのです。ほんもののカッコウは、林の奥で、人にはとてもまねられない、ふしぎな、くぐもり声をあげていました。  ずっと上流の谷で、お父さんが、魚をつっていました。 「このへんにいるんだぞ。遠くへ行くんじゃないぞ」  幾度も、そう言われたのに、あのとき、どうして私たちは、あんなに遠くまで、川をくだってしまったのでしょうか。  川は、ごぼごぼと音をたてて流れていました。水ぎわに、つゆ草が咲いていました。青むらさきの花は、まるで小さな灯のように、点々と咲きこぼれ、流れにそって、どこまでも続いていました。  その日、お父さんのつりのおともをして、はじめて山へ来た私たちは、めずらしいものをたくさん見て、|有頂天《うちようてん》になっていたのです。  林の中のりす。びっくりするほど大きいあげは蝶。赤い野いちごの実。親子のきじ。そして、やぶの中から、おずおずと首を出した小さいへび。その何もかもが、林の底で、つややかに生きていました。 「ほら、きつつき」 「ほーら、あそこにりすが」  私たちは、ひとつ新しい発見をするたびに、歓声をあげました。修は、まだ小さかったけれど、動物や鳥の名まえを、たくさん知っていましたし、花の名まえも、私が教えると、すぐおぼえました。あざみも、|百合《ゆり》も、りんどうも、ちゃんと、まちがえずに言うことができました。  そんなにおりこうで、かわいらしい弟が、あのとき、私の目の前で、森の緑の中に、ふっと、消えてしまったのです。信じられないほどす早く、まるで、あげは蝶が、姿を消したときのように。  今でも、私は、このことが、ふしぎでなりません。  ポッポー、ポッポー  前を行く修の声がとぎれたあと、私は、いきなり、うわーんという、けたたましい声を聞きました。つゆ草をつむ手をとめて、私は、はっと顔を上げたとき、風に吹きおとされた修の帽子が、水の上を、きりきりまわりながら、流されて行くところでした。そして、弟が、わけのわからない大声をあげて、帽子を追って行くところでした。 「修ちゃん」  私も、かけだしました。が、とうてい、追いつけませんでした。まだ四つの弟が、どうしてあんなに早く走れたのでしょうか。修は、もう、まりがころげるように、走り続けるのです。そして、流れにそって曲がると、やぶのかげに、見えなくなりました。続いて私が曲がったとき、そこに、もう、修の姿は、ありませんでした。いちめん、かやの野原が広がり、空には、白い雲が、ぽかんとひとつ、光っていました。 「お、さ、む」  私は、立ちどまってよんでみましたが、あたりは、しんと静まりかえって、川の音が聞こえるだけです。私は、胸をドキドキさせて、しばらく、そこに立ちつくしていました。  と、すぐそばのやぶが、ざわっとゆれたように思えました。 (あの中にかくれたんだ)  私は、そう思いました。いっしょに歩くと、修は、よくポストのかげなんかにかくれて、私をおどろかすのです。そして、見つけられるまで、そこにうずくまって、くつくつと笑っているのです。 「早く出てらっしゃいよー」  私は、やぶにむかって、よびかけました。 「帽子、もう、流されてしまったわよ」 「修、何してるの?」  修は、返事をしません。私の声だけが、ふしぎな鳥の声のように、あたりにひびきました。  |陽《ひ》がかげってきました。あたりは、明るい緑から、暗い緑にかわり、霧が流れてきたようです。  このとき、とつぜん、思いがけなく遠くで、  ポッポー、ポッポー  私は、きゅうに心が明るくなり、「いやな子」と、さけびました。もう一度、大声で、「修」とよんで、それから、はっと息をのみました。  ずっとむこうに、知らない大きな人がいたのです。  それは、女の人でした。信じられないほど大きな人が、長い灰色のスカートをはいて、ぼっと立っていたのです。その人は、まるで、かしの大木のようでした。両手をひろげて、ちょうど、お母さんが、私たちを抱きよせるときのようなかっこうで、じっと立っていたのでした。  灰色のスカートは、絹のようなうすい布でできていて、|幾重《いくえ》にも重なった、ひだスカートのようでした。そして、そのスカートのうしろから、  ポッポー、ポッポー と、修の声が聞こえるのでした。 (人さらいだ!)  私は、このとき、はっきりと思いました。この大きな女の人が、修をかくしたのだと。  そういえば、こんな感じの人を、私は、ずっと前に見ました。  あれは、お母さんと修と三人で、マーケットへ行ったとき——(あのとき、修は、まだ赤んぼで乳母車にのっていたのです)  お母さんが、修と私をおいて、売り場の方へ行ったあと、いきなり、「かわいいぼうや」と、乳母車にかがみこんで、修の頭を、なでた人がいましたっけ。とても、背の高い女の人でした……そして、そして、あの人のスカートは……ああ、あれはやっぱり、灰色だったでしょうか……あのとき、私は、いきなり、わっと泣きだしました。(修が、さらわれる、さらわれる)わけのわからないおそろしさが、あとからあとから、こみあげてきたのです。私が、まるで、サイレンのように泣きましたので、お母さんが、とんで来ました。すると、その人は、にげるように、消えて行きました。  そのときから、私は、人さらいを、こわがるようになりました。日が暮れて、いつまでも遊んでいると、人さらいが来るというのは、ほんとのことだと思うようになりました。  人さらいは、私の心の中で、日に日にふくらんでゆきました。それはもう、ふつうの人間ではないのです。何かおそろしい、大きなかげのようなものなのです。そして、ねらいをつけた子どもを、ひとりひとり、大きな布につつんで、さらってゆくのです。  そうして今、私はとうとう、その人さらいと、ばったりであってしまいました。たぶんあの人は、あれからずっと、修のことを、ねらっていたのでしょう。そして、たった今、つかまえたのでしょう。 「修」  私は、しぼりだすような声をあげました。 「こっちへ来なさい。早く」  すると、灰色のスカートのうしろで、修は、  ポッポー、ポッポー と、のんきな声をだすのでした。 「何してるの?」  私は、思いきって、修のそばへ、行こうとしましたが、足がすくんで動きませんでした。今行ったら、自分も、つかまってしまうんだと思いました。そうだ、いそいでひきかえそう。そして、お父さんを、よんでこよう。やっとそう考えついて、私が、二、三歩あとずさりしたとき、ふいに、人さらいは、手まねきをして、 「おいで」 と、言ったのです。それは、まるでゴーッと吹く風のような声でした。 「修は?」  私は、両手を、うしろに組んだまま、ぶっきらぼうにたずねました。 「修をさらったでしょ。どうするの? サーカスへつれて行くの」  まっ青になって、私は、たずねました。すると、人さらいは、声をたてずに笑いました。たばねたつる草のような髪が、ざわざわとゆれました。そして、いきなり、こんなことを言ったのです。 「サーカスなら、ここにちゃーんとあるわ。ほーら、ほーら、ほーら」  女の人は、いきなり、自分のスカートのひだのあいだから、小さい馬だの、空中ぶらんこだの、ピエロだのを出して見せました。そして、それを、あやつり人形のように、動かしてみせました。  小さい馬は、ぴょんぴょんとびます。空中ぶらんこは、ふりこのようにゆれます。ピエロは、赤と黒のだんだらの服を着て、べろりと舌を出します。アコーディオンが、なっています。拍手とさざめきと、笑い声と口笛が聞こえます。 (…………)  ふっと、私の胸の中に、ふしぎなときめきが生まれました。 (サーカスだ、サーカスだ)  きゅうに、わくわくして、私は、かけだしました。長い灰色のスカートめがけて、いちもくさんに。  けれども、その人は、思いがけなく、むこうにいるのでした。ちょうど、遠い大きな、そそり立つ木のように。  走り続けて、やっとやっと、私がたどりついたのは、長い灰色のスカートのすそでした。まったく、その人は、巨人だったのです。おもちゃのように小さく見えたサーカスの馬は、ふつうの大きさで、ピエロの背丈は、私よりずっと高いのでした。 「ほうら、じょうちゃん、馬に乗るかい」 と、ピエロが言いました。うん、と、うなずいて、私が馬のそばへかけよったとき、馬は、するりと、灰色のスカートのひだの中にかくれました。ピエロが、あわててそのあとを追いました。すると、空中ぶらんこも、歌声も、拍手も口笛も、みんなみんな、同じひだの中へ、ついついと、消えていったのです。  サーカスは、おわりでした。  あとは、しんと静まりかえり、そのひだの奥から、かすかなアコーディオンの音にまじって、ポッポーと、修の声が、ひびいてくるだけでした。  私はきゅうに、自分が、弟をさがしていたことを思いだしました。 「修」  そうさけぶと私は、今サーカスが消えていったひだの中に、わっと、とびこもうとしました。  が、そのとたん、スカートは、ゆらりと小さくまわりました。私の目の前に、次の新しいひだが、ほそい口をあけました。そして今度は、そのひだの中から、修の声が聞こえるのでした。やっぱり、  ポッポー、ポッポー と。  ああ、修は、こっちのひだの中にいたんだわ。私は、おそるおそる、となりのひだの中をのぞきました。  二番目のひだの中——そこは、なんと、雪げしきでした。粉雪が、さらさらとふって、山を、うずめようとしていました。 「修ってば、こんなところに来てたの」  私は、とてもあきれて、修が、とんでもないいたずらをしたときのように、ため息をつきました。 「どうりで、わからないはずよ」  私は、おとなっぽくつぶやきながら、雪げしきの中へ、どんどんはいってゆきました。  雪は、さっくりと積もっていました。遠い|樅《もみ》の木が、ゴーゴーと、風に鳴っています。あの木のうしろに、修は、かくれているのかもしれません。それとも、そのまたむこうの、こんもりした雪のかげで、息をころしているのかもしれません。私が近づくと、「うわっ」と、とびだして、おどかすつもりで。私は、先まわりして、 「修ちゃん、みぃつけた」 と、さけんでみましたが、私の声は、むなしく雪の中に散っただけでした。木のうしろにも、雪のかげにも、弟の姿はなく、それなのに、やっぱりどこかで、ポッポーと、修は、よんでいるのでした。  どれだけ進んだでしょう。いつか私は、目の前に、一軒の大きな家があるのを見つけました。雪のどっさり積もった草屋根の下に、障子窓がありました。そして、その窓の中から、たしかにたしかに、修の笑い声がひびいてくるのです。  修は、かたぐるまをしてもらうときみたいに、きゃあきゃあと笑っているのでした。ああよかったと思って、私は、大きな声で、 「修」 と、よびました。  すると、いきなり、障子が、ガラリとあいたのです。 「だれだい」  一瞬、私は、胸が凍りました。  ああ、そこには、熊が——そう、ぞっとするほど大きなひぐま[#「ひぐま」に傍点]が立っていたのです。親熊の背中に、子熊がいました。さっき笑っていたのは、この子熊でした。親熊は、耳をピクリとさせて、 「何の用だい」 と、私に言いました。それから、ずるそうな小さい目で、私をじっと見つめました。すると、背中の子熊が、修とそっくりの声で、 「父ちゃん、あれ、食後にいいね」 と、言いました。親熊は、うなずいて、 「ああ、食後にうまそうだ」 と、言いました。  とたんに、私は、まっ青になり、くるりと向きをかえて、かけだしました。どこをどう走ったか、おぼえていません。ただ、(食べられる、食べられる)と、心にくりかえしながら、私は、にげました。大きな黒いけものが、うしろから追いかけて来るような気がしました。くわっとあけた、ひぐま[#「ひぐま」に傍点]の赤い口が、今にも、首すじに、おおいかぶさるような気がしました。私は、走って走って、走り続けました。  そして……はっと気がついたとき、長い灰色のスカートのふもとに、ぺしゃんと、すわっていました。  はあはあと、あらい息をしている私の目の前で、スカートは、またゆらりと小さくまわり、新しいひだがあらわれました。  新しいひだの奥からは、やっぱりかすかに修の声が聞こえるのでした。遠い遠いやまびこのように。が、私はもう、その中へとびこんで行く勇気がありませんでした。この長いスカートをはいた人さらいは、私をからかっているのです。そして、ずっと上のほうで、くすくす笑っているのにちがいありません。  私は、伸びあがって、その顔を見ようとしましたが、あんまり高くて、のぞくことすらできませんでした。  私は、すっかりこわくなりました。弟のあとを追って、自分までが、姿を消されてしまうような気がしました。 「うわあ、うわあ、修がいない。お母さん、お母さん……」  しゃくりあげながら、私は、灰色のスカートのまわりを、よろよろと、まわりはじめました。  まるで、アコーディオンのようにたたみこまれた、ひとつひとつのひだの中には、たぶんさまざまな世界が、かくされているのでしょう。何番目かのひだの間から、あかい山百合が、わっと咲きこぼれていました。その次のひだの中は秋で、みわたすかぎりのすすきが、風にゆれていました。私は、 「どこー、どこー」 と、つぶやきながら、ひとつひとつのひだを、ほそ目にあけて、こわごわのぞいて見るのです。  まっ青な湖がありました。ボートがうかんでいて、そのむこうに、森がゆれていました。その次のひだは、桜の林でした。うすもも色の花のトンネルが、どこまでもどこまでも続いていました。その中で馬が一ぴき、伸びあがって、桜の花を食べていました。そのとなりのひだは、まっくらやみで、何ひとつ見えません。  と、そのやみの中から、私は、たしかに、今度こそたしかに修の声を聞きました。  ポッポー  その声は、とても近く、はっきりと聞こえました。ちょっと手を伸ばせば届きそうに思えました。私は、そっと、ひだの中に片手を入れて見ました。それから、もうひとつの手を入れて、ひくいするどい声で、 「修」と、よんでみました。  すると、やみの中に、青い小さな点が、ぴかっとまたたいたのです。 (ほたるだわ)と、私は、思いました。すると、またひとつ、またひとつ、まるで星のように、青い光は、ふえてゆきました。  私は、なんだかきゅうにうれしくなって、ひだの中にとびこむと、両手をひろげ、 「ほ、ほ、ほたる、ほ、ほたる」 と、歌ってみました。  川の音が聞こえています。まるで、氷の流れるような音でした。私は、耳をすまして、川の位置を、さぐろうとしました。  このとき、私は、あのたくさんの青い光が、ほたるではなくて、つゆ草のむれだったことに気づきました。たしかに、それは、つゆ草の青でした。やみの中に、つゆ草が、一列に光って、ふしぎな青い道しるべをつくっていたのです。それは、流れにそっていました。私は、両手を伸ばし、まるで目かくし鬼のように、手さぐりで修をさがしました。 「修ちゃん、修ちゃん」  ………… 「修ちゃん、修ちゃん」  ポッポーとよぶ声にむかって、私は進んで行きました。  けれど、いくら進んでも修は、私の手につかまりません。そして、その声は、川の音にかき消されて、いつかわからなくなってしまいました。  やみの中にとり残されて、私は、とほうにくれました。もう、進むことも、もどることも、できません。今にもたおれそうに、つかれていましたから。  私は、ひざをかかえて、草の上に小さく小さくうずくまりました。そうすると、自分が、ひとりぽっちの子うさぎになったような気がしました。でも、こんなときには、人間でいるよりも、うさぎのつもりでいるほうが、ずっとらくかもしれません。うさぎは、まっくらな山でも、こわがらずに眠るでしょう。私も、今夜ひと晩うさぎになって、ここで眠ろうと思いました。そうして、あしたになったら、もう一回、ていねいに修をさがしてみようと思いました。  修だって、もう眠ったかもしれません。この先の草むらで、やっぱり小さなうさぎになって、眠っているかもしれません……私は、そっと目をつぶりました。  と、私の頭に、ひょいと、あることが、思いうかんだのです。  眠っちゃいけない!  私は、目をあけて、がばっと立ちあがりました。山で、つかれて眠った人が、そのまま死んでしまう話を、私は今思いだしたのです。 (こんなときに眠ったらたいへんだ。私は、とてもつかれていて、とても、おなかがすいてるんだもの)  そうです。こんなときには、コーヒーをのむか、肩をたたいてはげましあうかして、けっして眠らないようにするのだと、お父さんが、話していましたっけ。けれども、ああ、今の私には、コーヒーをいれてくれる人も、肩をたたいてくれる人もいないのでした。ひとりぽっちの私にできることといったら……そう、歌を歌うことぐらいです。  私は、学校で習った歌を、そっと歌ってみました。それから、ずっと小さいときに歌った歌も、テレビでおぼえた歌も、なんでもかんでも歌いました。でたらめの歌まで歌いました。  今、歌が、私の命をささえてくれているのです。ちょうど、燃えている火になげこむ|薪《まき》がなくなったら、火は消えてしまうように、歌う歌がなくなったら、私の命もおしまいなんだという気がしました。私は、ひとつの歌を歌いながら、新しい薪をさがすように、次の歌を考えました。  こうして、ずいぶん長い間歌い続けてから、私は、とてもへんなことに気がつきました。  さっきから誰かが、私といっしょに歌っていたのです。男の人の声でした。  その人は、私の知っている歌を、みんな知っていました。でたらめの歌まで、ちゃんと同じに歌いました。私は、びっくりして、歌うのをやめて、 「だれぇ?」 と、よんでみました。すると、その人も、歌をやめました。それから、 「コーヒー、のむかい」 と、言ったのです。まるで、知りあいの人に、きがるに声をかけるように。私が、ぽかんとしていますと、その人は、 「それとも、あったかいミルクにするかい」 と、言いました。 「だって、誰なの……どこにいるの……」  するとその人は、歌の続きを歌うように、ふしをつけて、こう答えました。 「そこからほんの二十歩さき」と。  私は、言われたとおり、声のする方へ、二十歩進んでみました。  すると、目の前が、ぽっかり明るくなって、そこに、たった今あかりをつけた小さな三角テントがあったのです。テントの入り口から、とんがり帽子のおどけた顔がのぞいていました。見おぼえのある、赤と黒のだんだらの服を着て、その人は、「やあ」と、言いました。 「あら、ピエロのおじさん」  私は思わず大きな声をあげました。 「うわあ……さっきのサーカス、こんな所にいたの……」  私は、この小さなテントの中に、サーカスの一座が、まるで手品みたいにちんまりおさまっているのかと思うと、少したのしくなりました。ところが、ピエロは首をふって、 「ほかの人たちはいないよ。私ひとりだけ、ここに残ったんだ」 と、言いました。 「馬が急にあばれだして、どこかへ行ってしまったもんでねえ。私は、ここで、さっきから、馬の帰りを待ってるんだ」 「馬?」  私は、さっきちらっと見た桜林を思いだしました。 「あたしさっき、馬を見たわ。桜林の中で、その馬は、桜の花を、食べていたの」 「ほっ、桜林にいたって? 花を食べていたって? そうかい。そんなら安心だ」  ピエロは、はじけたそら豆のような目をしばたたきました。 「そんなら、そのうちおとなしくなって、ここへもどって来るだろう。あの馬は、桜の花が大好きなのさ。花ふぶきをあびて走るのが好きで好きでたまらないんだ。花の季節がおわっても、夏になっても冬になっても、好きでたまらないんだ。それで、ときどき、あばれだすんだ。ところが、山というのは、ふしぎな所でねえ。桜、桜と思いながら、夢中で走りまわっていると、その人の目の前に、ひょいと桜林があらわれたりするんだ。季節はずれのとっぴょうしもないものでも、ちゃーんと見えて来るのさ。馬は、自分の桜林に、とうとうめぐりあって、そこでゆっくり遊んでいるんだよ」 「そう、そんなことってあるのねえ……そんなら、あたしも、修に会うことができるわねえ。私はずっとさっきから、修のことばかり考えて歩いていたんだもの」  私は、しみじみとそう言いました。それからそこにすわって、ピエロのいれてくれた、あついコーヒーをのみました。すると、体があたたまって、元気が出てきました。ピエロは、私を、はげましてくれました。 「そうとも。きっと会えるさ。もっとさがしてごらん。もし、くらやみがきらいなら、つゆ草のあかりをこしらえて、照らしてみてごらん。きっと見つかるから」 「つゆ草のあかり?」  私がきょとんとしていますと、ピエロは、テントからとびだして、ほたるのように光っているあのつゆ草をつみはじめました。そしてみるみるうちに、大きな花たばをつくってくれました。それはそのまま、青いあかりになりました。 「これで照らして歩いてごらん。きっと、会いたい人に会えるから」  こうして私は、青い花たばで道を照らしながら、川にそって、歩いて行きました。ときどき立ちどまっては大きな声で、 「修」と、よびました。  すると、また、聞こえてくるではありませんか。  ポッポー、ポッポー、と。 「うわあ、おさむちゃん!」  私は、花たばを、ぐるぐるまわしました。  と、その青い光の輪の中に、いきなりぱっととびこんで来たものがありました。  それは、まぎれもなく、ポッポーという、あの声のぬしでした。けれども、修ではありませんでした。なんと、一羽の鳩でした。私は、胸をドキドキさせながら、鳩をだきあげて、その羽をさすりました。  鳩は、あたたかい胸をしていました。鳩をだいて私は、わっと泣きました。涙が、あとからあとからあふれました。  ああ、修は、鳩にされていたのです。へたなカッコウのまねばかりしていたから。そして、それがあんまり鳩の声ににていたから、とうとう山の精の魔法にかけられてしまったのです。 「修」とよぶと、鳩は、胸をふるわせて、「くう」と、鳴きました。  私は、鳩をだいたまま、川のほとりにすわって、いつまでも泣いていました。そして、泣きながら、とうとう眠ってしまいました。  もう少し長く眠っていたら、おまえも、山の中で死んでしまっただろうと、あとでお父さんに言われました。 (おまえもですって?)  私は、そのたびに、むきになって、首をふるのです。「修は、死んでなんかいない!」と。それから、一生けんめい話すのです。  あのとき、長い灰色のスカートのひだの中で私は、鳩になった修を、やっと見つけたのだと。が、誰も信じてはくれません。修は、川に落ちて死んだのだと、誰もが言いました。ずっと下流で、修の白い帽子が見つかったのでしたから。  けれど、私は、そのたびに、さけぶのです。  修が、私の前から姿を消したとき、帽子をかぶってはいなかったのだと。帽子だけが、先に流されて、修は、それを追いかけて水ぎわを走っているうちに、灰色のスカートの人にさらわれてしまったのだと。そして、鳩の姿になって、今もスカートのひだの中で鳴いているのだと。  が、誰も、わかってくれません。  おまえは、山の中を一昼夜さまよったのだから、その間にまぼろしでも見たのだろう、灰色のスカートというのは、きっと大きな枯木だろうと、お父さんは言いました。  そして、私の髪をなでながら、もうけっしてけっして、山へなど行くまいと、くりかえすのでした。 [#改ページ]   野 の 音     1  ビロードの針さしに、鈴のついたはさみ。銀色のゆびぬきと糸。  はじめて、この洋服店へとびこんで来た日、少女の持ち物は、そんなものを入れた小さな針箱ひとつだけでした。 「ごめんください。あのう、見習いになりたいのです。働きながら、洋服のぬい方を、おぼえたいのです」  『見習い洋裁師募集』という紙のはられた戸をあけて、店の中へはいると、少女は、まるでおぼえたてのセリフをあんしょうするように、そう言いました。  仕事場には、ストーブが燃えていました。お湯が、しゅんしゅんにたっていました。そして、色あせたカーテンのうしろで、かすかなミシンの音がしていました。が、返事はありませんでした。 「ごめんください。あたし、見習いになりたいのです」  少女が、もう一度くりかえしたとき、カーテンのうしろから、ぶっきらぼうな声がかえって来ました。 「としはいくつ? どこから来たの? 経験は?」  この矢つぎばやの質問に、少女は、はっきりと、こう答えたのです。としは十六。たった今、となりの町から来たところで、経験はないけれど、一生けんめい働きたいと。すると、カーテンのうしろから、こんなことばが返って来ました。 「でも、経験がなくちゃねえ。いくら一生けんめいでも」  それから、店の主人は、声を小さくして、十六の娘じゃとても役に立たない、といったふうのことをつぶやきました。少女は、しばらく黙っていましたが、思いきって、タネあかしでもするように、こう言いました。 「ほんとのこと言うとね、あたし、このお店で、ボタンの穴かがりをおぼえたかったんです」  このとき、少女の目は、びっくりするほど真剣でした。さがし求めていた宝物の手がかりを、やっと見つけた人のように。そして、その手がかりに、必死にすがりついている人のように。  少女は、きっぱりと言いました。 「あたし、ちゃーんと知ってるんです。あなたのかがったボタン穴は、とくべつなんだっていうことを」 「…………」 「私の家も、洋服屋です。お父さんと兄さんが、小さい紳士服の店をやってます。でも、あんなにすてきなボタン穴は、お父さんにも、兄さんにもできません。どんな機械を使っても、できません。それをおぼえたくて、あたし、来たんです。長い間考えたすえ、とうとう決心して、けさ早く、家を出て来たんです」 「家出して来たって?」 「いいえ。家を出て来たんです。ちゃんとことわって、出て来たんです」 「…………」 「ねえ、あなたの穴かがりには、何かとくべつの秘密があるのでしょ」 「とーんでもない、秘密だなんて」 「ううん。たしかに、何かあるんだわ。そうじゃなくて、どうしてあんなにすてきな……」  ここまで少女が言ったとき、カーテンが、そっとあきました。そこには、首から巻尺をぶらさげた、年とった女の人が、立っていました。髪はまっ白で、ふちなし眼鏡の奥に、鳥のような灰色の目が光っていました。  少女は、その姿を見ると、明るい顔になって、笑いさざめきながら、さけびました。 「ああ、あなたが、このお店のご主人ね。私の思っていたとおりの人だわ。なんだか、とっても神秘的で……」  それから少女は、もう、ことわりもなしにくつをぬぐと、さっさと店の中へはいって行き、仕事台のそばの、古いいすにすわりました。それから、ふろしきづつみをほどいて、自分の針箱をとりだして、ふたをあけました。 「ほーら、あたし、小ぎれをたくさん持って来ました。それから、針と糸と。ね、これでどうぞ、穴かがりを教えてください。ね、あのふしぎな穴かがりを……」  そう言いながら、少女は顔を上げて、仕事台の上につんであったたくさんの洋服を見つけました。 「ああ、これみんな、あなたのつくった洋服ね」  少女は、洋服にかけよって、いきなり、ひとつひとつのボタン穴に耳をつけてみました。それから、目をつぶって、うっとりとつぶやきました。 「聞こえるわ。聞こえるわ、やっぱり聞こえるわ」と。  ボタン穴からは、なんと、小鳥のさえずりが聞こえるのでした。それから、風の音とか、せせらぎの音とか。  何カ月か前、買ったばかりの自分の服のボタン穴から、はじめてこの音を聞いたとき、少女は、自分の耳を疑いました。ボタン穴を、大いそぎで、ひっくりかえしてみました。けれど、穴のうしろには、ありふれた冷たいボタンが沈んでいるだけでした。それなのに、なぜ? ああ、ほんとうに、なぜなのでしょう。この洋服店でつくられた洋服のボタン穴からはなぜ、小鳥のさえずりなんかが聞こえるのでしょうか。 「ねえ、なぜなの。いったい、どんなかがりかたをすると、こんなすてきなボタン穴ができるの」  少女は、洋服屋に、すがりつくようにして、たずねました。洋服屋は、しばらく黙ったまま、じっと少女のようすを見つめていましたが、やがて、ぽつりと言いました。 「あんた、本気なんだね」  それは、なんだか、ぞっとするほど無表情な目でした。 「本気で、ボタン穴の秘密が知りたいんだね。ほんとに、あの音が、好きなんだね」  少女は、そっと、うなずきました。すると、洋服屋は、つかつかと、戸だなの所へ行き、ひきだしから、一枚の洋服を出して来ました。 「それじゃ、あんたは、きょうから私の弟子だ。これが、うちの制服だよ」 「制服? あら、制服なんか、あるんですか」  少女は、たのしそうに笑いました。 「そう、まあ、仕事着みたいなものだけど、ちょっとあそこで、着てみてごらん」  洋服屋は、その服を少女に手わたすと、かりぬい室を、ゆびさしました。  仕事場のすみに、カーテンで仕切られた、小さなかりぬいのへやがありました。たたみ半分ほどの広さで、正面に、ほそ長い姿見がついていました。ちょうど、壁にくりぬかれた、ほら穴のような感じの、うす暗い場所です。  少女は、服をかかえて、いそいそと、かりぬいのへやにはいり、カーテンをしめました。 「どう? ぴったり合うかね。それとも、少し小さいかね」  カーテンの外で、洋服屋は、たずねました。 「ええ。そでが少し……」と、少女の声がしました。 「少し、長いの?」 「ええ。三センチほど」 「そう。じゃ、|丈《たけ》はどう?」 「丈は、ちょうどです」 「えりの感じは?」 「…………」 「えりの感じはどう?」 「…………」 「あんたは、その洋服が、気に入ったかい?」 「…………」 「どう? 気に入ったかい?」  どうしたことでしょう。少女は、返事をしなくなりました。それどころか、せきも、身じろぎさえ。まったく、息をするけはいさえ、ありませんでした。  洋服屋は、しばらく、じっと耳をすましていましたが、やがて、うなずいて、静かに、かりぬい室のカーテンをあけました。  中には、誰もいませんでした。まったく、誰ひとり。  こんなふうにして、ひとりの少女が、消えてしまったのです。     2  じつは、こんなことが、これまでに、幾度もありました。  ふしぎなボタン穴のかがりかたをおぼえようとして、この店をおとずれた若い娘は、必ずあのかりぬい室で、姿を消したのです。  それだけではありません。この店に仕立てを注文して、かりぬいにやって来た娘たちまでが次々に消えて行きました。まるで、目に見えない世界へ、すい取られて行くように、ひっそりと、声もたてずに。  大きな町の、裏通りにある、小さな洋服店です。生い茂った|泰山木《たいざんぼく》の木かげに、もう何十年も建っている、古い二階だての家です。  このおばあさんが、いったいいつ、ここに店を出したのか、知っている人は、誰もいません。そして、町の娘たちが、次々に姿を消したことについて、この店に疑いをかけている人も、誰もいません。  まったく誰も?……いいえ。じつは、たったひとりだけ、このことに、ひそかに感づいている人がありました。  それは、あの少女が、消えて間もなく、となりの町から、やって来た男です。コートのポケットに両手をつっこんで、道のむこうから、毎日じっとこの店を見張っている若者です。それは、いつかの少女の兄さんなのでした。  この人は、妹のゆくえをさがして、この町へ出て来て、もう一週間近く、店のまわりを見張っていました。そして、どう考えても、この店が、あやしいと思うようになったのでした。なぜなら、朝のうちに店にはいったひとりの少女が、日が暮れても出て来ないのを、たしかめたからです。夕方、その少女の家族らしい人が、心配そうなようすでやって来ました。そのとき、店の奥から、妙な感じのおばあさんが出て来て、静かに、こう言ったのです。 「ああ、あのお嬢さんなら、朝のうちに、かりぬいをすませて、お帰りになりましたよ」  若者は、これを聞いて、はっとしました。彼は、この店で、ふしぎなボタン穴が、つくられていることも、よく知っていましたから、どうやら、あの洋服屋は、ただの人間ではないと思いました。 (こりゃ、ひとすじなわでは、すまないぞ)  男は、ひとりで、うなずきました。そして、いよいよ、店にのりこんで行くときが来たと思いました。 「ごめんください」  日が、とっぷり暮れてから、男は、ガラリと、店の戸をあけました。そして、白い息をはきながら、こう言いました。 「見習いになりたいんですがねえ。住みこみで働かせてもらえませんか」  すると、奥から、あのおばあさんが出て来ました。 「ほう。あんたが、ここで働きたいの。男が来たのは、はじめてだわ。としはいくつ? 名まえは何ていうの? 経験は?」  これを聞いて、男は、すらすらと答えました。 「名まえは、杉山勇吉。としは、はたち。となりの町で、洋服屋をしていて、うでは、とびきり上等だ」 「ふうん……」  おばあさんは、心が動いたふうでした。しばらくじっと、その正直そうな顔を見つめていましたが、急に、声を小さくして、 「あんたは、秘密を守れるかね」 と、聞きました。 「秘密……と、言いますと?」 「わたしゃ、ふつうの洋服屋とは、ちょっとばかりちがう仕事をしてるんでね、万一、それを見つけて、よそでおしゃべりされちゃ困るんだ。それで、若い娘は、なるべくやとわないことにしてるんだ」 「なるほど。若い娘は、よくしゃべりますからねえ」 「そう。まったく、小鳥みたいに、おしゃべりだ。それで、わたしゃ、おしの女か、無口な男が来たら、見習いにやとおうと思ってたのさ」 「おれは、無口だよ。なんなら、十日でも二十日でも黙っていられるよ」  男は、ぼそぼそと、つぶやきました。 「そう。そんなら、しばらく、私の仕事の手伝いをしてもらおうか」  これを聞いて、杉山勇吉は、くつをぬぎました。仕事場へあがると、しげしげと、へやの中を見まわしていましたが、その目は、仕事台の上のアイロンのあたりで、ぴたりと止まりました。  そこには、見おぼえのある、小さな針箱があったのです。勇吉は、一瞬、ぴくりと、まゆを動かしましたが、あとは、なにくわぬ顔でいすにすわって、ゆっくりたばこをすいました。     3  勇吉の、この店での仕事は、ごくふつうの洋服屋の仕事と同じでした。つまり、布を|裁《た》ったり、ミシンをふんだりアイロンをかけたり……。こんな小さな洋服店にも、デパートや、表通りの店からの注文が、ずいぶんあるのでした。おばあさんは、働きものの勇吉が、気に入ったらしく、ずいぶん、親切にしてくれました。むずかしいポケットのつくり方や、めずらしいぬいとりも、教えてくれました。  けれど、勇吉は、まだ一度も、ボタンの穴かがりを、させてもらっていません。 「穴かがりは、あとでまとめてするからね。そのままにしといておくれ」  おばあさんは、いつもそう言いました。そこで、仕事場には、ボタン穴だけができていない洋服が、どんどんたまっていきました。 (こんなにどっさりためこんで、いったい、いつする気だろう)  勇吉は、それが気になってたまりませんでしたが、おばあさんは、一週間たっても、十日たっても、穴かがりをするようすは、ありませんでした。  勇吉は、言われただけの仕事をして、夜になれば、階段の下の、小さな物置きべやで眠りました。しばらくの間、かわったことは、何ひとつおきませんでした。もどかしいほどに、静かな日々が続きました。  ところがある晩、ちょっと妙なことが、あったのです。  それは、春のはじめの、しっとりとした月夜でした。階段の下のへやで、勇吉は、いつものように、横たわっていました。ななめにかしげた天井を、じっとにらんでいますと、いなくなった妹の顔が、ぽーっと目にうかびました。 (そろそろ、何とかしなくちゃいけないぞ)  勇吉は、すでに、この家の中を、すみからすみまで調べあげていました。おばあさんが、ちょっと外出したときに、二階のへやの押し入れや、たんすの中まで、のぞいて見ました。が、妹の姿は、どこにもありませんでした。  とても小さな、二階だての家です。少し変わっているところといえば、この家が、泰山木に、ぴったりついて建てられていて、まるで、木の続きのように見えることでした。が、そんなことから、いくら|謎解《なぞと》きをしても、妹のゆくえは、わかりません。  ほーっと、大きなため息をついて、勇吉は、目をつぶりました。  と、このとき、天井の上で、変な音がしました。パラパラと、まるで、雨つぶが、トタン屋根を、たたくときのような……。 「雨かな」  勇吉は、そうつぶやいてから、でも、おかしいなと思いました。今夜は、よい月夜です。それに、たとえ、にわか雨がふって来ても、天井の上は、階段です。雨が、直接階段をたたくわけがありません。が、じっと聞いていると、その音は、どんどん激しくなり、階段を上から下まで、一段残らずたたいているのです。 (雨もりがしているらしいぞ)  勇吉は、おきあがろうとしました。急いで二階へかけあがって、おばあさんを、起こさなければいけないと思いました。けれどもいつか、その音は、夢の中の音のように思えてきました。 (うん。これは、豆のこぼれる音だ)  勇吉は、目をとじたまま、うなずきました。 (ばあさんが、階段の上で、豆をひと袋こぼしたにちがいない)  そんなことを思いながら、いつか勇吉は、ふかい眠りにおちてゆきました。  |翌朝《よくあさ》、勇吉が、仕事場へ行きますと、仕事台の上には、ボタンの穴かがりのすっかり終わった洋服が、ずらりとならんでいました。 「い、いつのまに……」  勇吉は、目をまるくしました。 「ねえ、いったい、いつしたんです? こんなにたくさんの穴かがり」  すると、おばあさんは、そっけない顔で、 「わたしゃ、無口な男が好きなんだよ」 と、言いました。  おばあさんが、奥へ行ったとき、勇吉は、できたてのボタン穴に、そっと耳をつけてみました。すると、やっぱり聞こえるのでした。  あの、ふしぎな音が。  勇吉は、そこにある洋服を、かたっぱしからつかみ上げて、耳をつけました。そして、その何番目かのボタン穴から、勇吉は、ちらっと、妹の声を聞いたような気がしました。草のさやぐ音にまじって、妹の歌声が、ほんのひとふし。  家で、妹はよく、歌を歌いながら、洗濯なんかしていたのです。もっと小さいころには、こたつにあたって、いっしょに歌いながら、ずいずいずっころばしをしました。あのときとそっくりの声が、今、ボタン穴から、ちらっと聞こえたのでした。ちょっと舌たらずの、なつかしい鼻声でした。 (そうだったのか。やっぱり、ボタン穴の秘密と、いなくなった娘たちのゆくえは、関係があるんだ)  このことに気づくと勇吉の胸は、もう、どうかするほど、ドキドキしてきました。  午前十一時に、デパートの車が来て、すっかりできあがった百枚の洋服を仕入れて行きました。帰るとき、デパートの店員は、 「じゃ、また、来月お願いしますよ」 と、言いました。おばあさんは、あいそよく笑って、 「ええ。また、満月の次の日あたりに来てください」 と、言いました。これを聞いて、勇吉は、はっと胸をおさえました。 (やっぱり、ゆうべだ。満月の夜に、何かあるんだ)     4  次の満月の晩、勇吉は、決して眠るまいとしました。仕事が終わると、早々と自分のへやにはいって、床にすわって、天井をにらんで待ちました。両手をにぎりしめ、全身を耳にして、じりじりと待ちました。  と、真夜中の何時だったでしょう……また、あのふしぎな音が、パラパラと、階段をたたきはじめたのです。それは、何か小さな生き物の足音のようにも思われました。たとえば小鳥とか、ねずみとか……いいえ、それよりもっと軽い乾いた音です。その音は、階段を下りると、勇吉のへやの前のろうかを通って、仕事場の方へ進んでいました。 (ようし、のぞいてやろう)  思いきって、勇吉は、ドアをほそ目にあけました。そして、一瞬、息をのみました。  なんと、それは、|木《こ》の葉の|群《むれ》だったのですから。  もう、目もくらむほどたくさんの木の葉が、生きもののように、パラパラはずみながら、仕事場へ向かって進んで行くところなのでした。どれもこれも、大きくて、つややかな緑色で……そう、ひとつ残らずが、泰山木の葉でした。  勇吉の頭に、すぐ、この家のそばの、大きな木が、うかび上がりました。この家に、ぴったりとくっついて、そそり立っている、あの木——どうやら、木の葉は、二階の窓から吹きこんだらしいのです。そして、まるで、木枯らしにでも吹きとばされるようにして、あけ放たれた、仕事場のとびらの中へ消えて行きました。すべての木の葉が、すいこまれると、仕事場のとびらは、ひとりでに、バタンと、しまりました。 (緑の葉が、あんなにどっさり散るなんて、こりゃたいへんなことだ。二階で、あの人が、何かしたのにちがいない)  勇吉は、思わず、廊下におどり出て、階段を、かけのぼりました。  息せき切ってとびこんだ、二階のへや——そこには、誰もいませんでした。  大きくあけ放たれた窓から、びっくりするほど明るい月の光が、さしこんでいました。勇吉は、あきれました。 (こんな夜中に、窓をすっかりあけて、一体、どこへ行ったんだろう)  よろよろと、窓にかけよって、勇吉は、通りを見おろしました。  月の光をあびて、町は、静まりかえっていました。むかいの、写真スタジオのあかりが、にぶいみかん色をしています。駐車している自動車のかげが、アスファルトの道に、重く落ちています。裏通りの、静かな暖かな、春の晩です。  おばあさんは、いません。いつも、夜になると、さっさと二階に上がるあの人の姿は、どこにもありません。 「仕事場だろうか……」  勇吉は、階段を下りて、おそるおそる、仕事場へ向かいました。  さっき、木の葉がどっと舞いこんだ仕事場のドアのすきまから、ほそく一筋、ふしぎな光がこぼれていました。そして、そこから、はなやかな笑い声が、どっとあふれてくるのを、勇吉は、聞いたのでした。 (この夜中に……一体、誰が……)  勇吉は、胸をドキドキさせて、仕事場のドアを、そっとあけました。  すると、ドアのむこうに、思いがけないけしきが広がりました。  ドアのむこうは、野原だったのです。  みわたすかぎりの原野でした。空に、黄色い月が、ぽっかりとかかって、おい茂った草が、ざわざわと、風にゆれていました。  洋服屋の仕事場なんか、どこにもありません。もちろん、店の入り口の、ガラス戸もありません。そのむこうの裏通りもなければ、むかいのちっぽけな写真スタジオもありません。  あるのは、あの泰山木だけ。  緑の葉を、すっかり落として、一夜のうちに、はだかになった泰山木が、空にそびえていたのです。  そして、もっと思いがけないことは、その野原いっぱいに、おおぜいの少女たちがちらばっているのでした。いったい、何十人いるでしょうか。少女たちは、みんなおそろいの、つややかな緑の服を着て、まるで、木の葉の精のように見えました。そして、笑いさざめいたり、歌ったりしながら、つみ草をしているのでした。  「たんぽぽ すぎな れんげ草   つくしに よめなに かやつり草   今夜はみんなで よもぎのおもち」  こんな歌を歌いながら、少女たちは、草を、自分のエプロンに入れてゆきます。エプロンが、草でいっぱいになると、今度は、それを野原のまん中に集めて、ふしぎなことをはじめました。  たくさんの草を、古めかしい大きな糸車にかけて、ほそいほそい糸につむいでゆくのです。  「すみれ 菜の花 うさぎ菊   はこべ つゆくさ ふきのとう   あしたはみんなで 赤まんま」 と、みるみるうちに、つややかな、草色の糸が生まれました。少女たちは、それを、いくつもの糸巻に巻きました。その仕事がすっかり終わると、思い思いの場所にすわって、針仕事をはじめたのです。一体、どこから取り出したのか、少女たちは一枚ずつの洋服を、ひざに広げて、そのボタン穴をかがりはじめました。 「ほう……」  勇吉は、思わず、野原へふみこんで行ってその仕事ぶりをながめました。  少女たちは、それは、あざやかな手つきで、針を動かしています。針は緑の松葉でした。糸は、たった今つくった、草の糸でした。  そんな道具を使って、少女たちは、野原の音を、ボタン穴の中に、ぬいこんでいたのです。  勇吉は、まぼろしを見ているような気がしました。息をころして、まばたきをするのも忘れて、そこにいる少女たちの顔を、ひとりひとり、たんねんにながめました。この中に、きっと妹がいるはずだと思って……。  けれど、どの少女も、どの少女も、みんな同じような顔をして、勇吉のことなど、ぜんぜん見えないようすで、たのしそうに、穴かがりをしています。  ——おーい…… と、勇吉は、妹の名まえを、よんでみたつもりでした。  ——だめじゃないか。こんな所で、のんきに針仕事なんかして。早く家に帰らなきゃ、だめじゃないか。  けれど、それは、声になっていませんでした。勇吉は、ただ魚のように、口をパクパクさせただけでした。勇吉は、何とかして、妹をさがしあてようとするのですが、どの顔も妹のように思え、また、どの顔も、妹ではないように思われました。  ——おーい、おーい……  声にならない声で、勇吉は、妹の名まえを、よび続けながら、少女たちの顔を、ひとりひとりのぞいてまわりました。  ——おーい、おーい……  このとき、月が沈んだのです。  すると、少女たちの声は、ぴたりと止まりました。そして、みるみるうちに、ひとり残らずが、泰山木の葉に、姿を変えていったのです。  木の葉は、つむじ風に、まきこまれるように一度に舞い上がり、くるくるまわりながら、朝の光の波にのまれて、消えて行きました。  気がついたとき、勇吉は、仕事場の床に、ぺたんとすわっていました。  窓から、朝日が、まぶしくさしていました。見上げると、泰山木の緑の葉は、きらきら光ってゆれていました。そして、仕事台の上には、穴かがりのすっかり終わった洋服が、うず高く積み上げられていたのです。 (おどろいた、おどろいた……)  勇吉は、あらい息をしながら、しばらくは、立ち上がることさえ、できませんでした。目をつぶれば、まだ、野原のまん中にすわっているような気がしました。野をわたる風の音と、少女たちの歌声がまだ聞こえるような気がしました。  それから数日後、勇吉は、仕事をしながらおばあさんに、こんなふうに話しかけてみました。 「ねえ、この家には、ねずみがいますね」 「ほう、そりゃまた、どうして?」 「この間、おれは、足音を聞いたんだ。夜中に、バラバラってねえ。それも、一ぴきや二ひきじゃない。五十ぴきも百ぴきもの足音だ」 「そりゃあんた、何かのまちがいだろ。雨の音とちがうかい」 「いや、たしかに、ねずみの足音だ。そのとき、おれは、ちょっと、廊下に出てみたんだ。すると、それがみーんな、緑色のねずみでねえ。二階から、もう、ぞろぞろ、ぞろぞろ、廊下の板が見えなくなるほどおりて来て、この仕事べやにはいりこんだ。そのとたん、ねずみは全部、若い娘に、早変わりしたんですよ」  おばあさんは、勇吉の話を、ふんふんと、聞いていましたが、とちゅうで、針を動かす手が止まり、布が、ぱらりと、ひざに落ちました。それから、ぼそっと言いました。 「とうとう、私の秘密を見つけたね」と。それから、ちょっといたずらっぽく笑うと、 「それにしてもあんたは、よっぽど目が悪いねえ。あれが、ねずみに見えるなんて」 と、言いました。そこで勇吉は、とぼけた顔で、こうたずねました。 「ほう、それじゃいったい、何なんです? あの階段をおりて来た緑の生きものは」  すると、おばあさんは、とくいそうに、鼻をふくらませました。このとき、その小さな灰色の目は、びっくりするほど生き生きと輝きました。 「そんなら、あんたにだけ、とくべつに教えてあげるけど、あれはみーんな、私のだいじな木の葉なんだよ」 「…………」  勇吉は、しばらく考えこんでから、ぼそぼそと、こう言いました。 「でも……でも、木の葉に、あんなすばらしい、まぼろしの野原をつくることができるだろうか……いいですか。ゆうべは、ここに見えるもの、何もかもが消えて、この町いっぱいの、広い野原ができていたんですよ。見おぼえのあるものといったら、あの泰山木だけだった」  すると、おばあさんは、にっこり笑いました。 「そう。それが、昔のこのあたりのけしき。百年前には、ここに、町なんか、ありゃしなかったんだ。みわたすかぎりの、すばらしい野原でねえ。泰山木だけが、空にむかってそそり立っていた……」  おばあさんは、なつかしそうに、ほーっと息をつきました。それから、ふと、やさしい声になって、 「ほんとのことを教えようね」と、言ったのです。勇吉は、そっとうなずきました。ひざの上に置いた手が、少しふるえました。おばあさんは、しみじみと、こう言いました。 「じつは、私は、木の精なんだよ」 「…………」 「そう、ずーっと昔から、泰山木の中に住んでいた木の精なんだ。私は、木の中に、小さいへやを持っていてねえ……。  あんた、知ってますか。木の中には、みんな、ひとつずつ木の精のへやがあるってこと。わたしゃ、月に一回、満月のばんに、こっそりと家を出て、木の中の自分のへやにはいって、|灯《ひ》をともすことにしているの。そうして、おまじないをすると、ああいうことがおきるの。つまり、この場所に、私の思い出をくりひろげることができるのさ。  私は昔、枝の中に、小鳥を百羽持っていた。りすの家族に、巣をかしていた。ちょうちょたちが、はねを休める宿も開いていた。それから……そうそう、洋服屋もしてたんだよ。おしゃれな|穴熊《あなぐま》の服は、私の葉をつづりあわせて作ってあげたし、きつねのお嬢さんの帽子は、泰山木の白い花と決まってた。  ところが、野原のようすが、だんだん変わって来てねえ。草が刈り取られ、まわりに家が建つと、小鳥もりすも、どこかへにげて行った。小川は埋めたてられ、道路ができて、町は、ずんずん大きくなった。工場ができて、自動車が、ふえていった。  すると、どういうわけだろう、私の葉は、青いまま枯れて、ぽろぽろ落ちるようになったんだよ。そのうち、花も咲かなければ、実もならなくなった。気がついたときは、まるぼうずの、みじめな姿になっていた。  すると、木の中のへやは、何だかとても息苦しくなってねえ……。しかたがないから、私は外に出て、木の下に店をつくって、人間ふうに、暮らしてみることにしたのさ。洋服屋のかんばんをたててみたら、その日から、若い娘が幾人も、仕立てをたのみにやって来た。ある日、私は、ひょいと思いついて、ひとりの娘を、泰山木の葉に変えてみたのさ。それが、とてもうまくいってねえ。それからってもの、私は、自分の木の葉を、どんどんふやしていった。町の泰山木は生きかえったって、誰もが喜んだものさ。  木の葉になった娘たちは、ふだんは、木の上でああして眠っていて、満月の晩だけ、私の思い出の野原で、もとの姿になって、穴かがりをしてくれるの。思い出の野原で、とくべつの針と糸を使って、かがられたボタン穴からは、野原の音が聞こえるの。そんなふうにして、私は、町の人たちに、ボタン穴にひとつずつ、野原の音を、おすそわけしているわけ」 「なるほど。そりゃすてきだ……」  勇吉は、うっとりとつぶやきました。が、そのあとすぐ、いなくなったおおぜいの娘たちのことを思って、心がかげりました。     5  それからというもの、勇吉は、これまでより、ずっと無口になりました。もう、石のように黙って、わきめもふらずに仕事をしました。そして、仕事のとちゅうで、重いため息をつきました。勇吉のぬった洋服は、満月のたびに、あの娘たちの手で、ボタン穴がかがられ、町へ散って行きました。  ときどき、おばあさんは、この店へやって来た若い娘を、とてもうまくあのかりぬい室に入れて、木の葉に変えました。このごろ、この仕事が一回成功するたびに、おばあさんは、こんな歌を歌いました。  「わたしの木の葉が 一枚ふえた   わたしの仕事は 早くなる」  何回目かの給料をもらったとき、勇吉は、ほんのちょっと外出しました。表通りへ行って、買い物をひとつして、大急ぎで帰って来ました。  静かに静かに月がふくらんで、やがて、五月の明るい満月が来ました。  その夜、勇吉は、こっそりと、おもてに出たのです。そして、むかいの、写真スタジオのかげにかくれて、おばあさんが出て来るのを待ちました。  まんまるの月が、泰山木のま上にかかるころ、洋服屋のガラス戸が、そっと内からあきました。そして、ランプを持ったおばあさんが、ゆらりと出て来たのです。 (いよいよ始まるぞ)  勇吉は、目を大きく見開き、あらい息をしました。  これからおばあさんは、あの木の中にはいるのです。そして、そこでランプに火をともして……。 (ああ、そのときだ、そのときだ)  勇吉は、右手に、にぎりしめたものを、そっと見やりました。  それは、のこぎりでした。いつか、こっそりと買った、すばらしい切れ味ののこぎり……。  これで勇吉は、泰山木を切ってしまうつもりでした。胸をドキドキさせながら、勇吉は、おばあさんの動きを、じっと見つめていました。  おばあさんは、つかつかと、泰山木に近よって、手で、木の幹をこすりました。はじめは、さするように小さく、それから、だんだん大きく、力を入れて。  すると、おばあさんの手でこすられた、その部分だけが、すきとおって行くようでした。 (なるほど。ああして、木の中にはいるんだな)勇吉は、すっかり感心しました。  やがて、そのすきとおった部分が、ちょうど、人ひとり分の大きさになったとき、おばあさんの姿は、木の中に、すい取られるように消えたのです。  なんとあざやかな魔法でしょうか。勇吉は、すっかり感心して、木を切るのも忘れて、しばらくは、その場に、ぼっと立ちつくしていました。が、やがて、その胸に、ひょっとうかんだ、新しい思いがありました。 (木の中のへやというやつを、おれもちょっと、のぞいてみたいものだ)  それほど、おばあさんは、みごとに、木の中に消えたのです。あんなふうにして、自分も、ほんのちょっとだけ、木の中をのぞくことができたらいいと、勇吉は、思ったのでした。 (そうだ。あの人が、どんなへやで、どんな呪文をとなえるのか、一目見てからにしよう。そのあとで木を切っても、おそくはないぞ)  勇吉は、のこぎりを持ったまま、泰山木にかけよりました。  そして、さっきおばあさんがこすっていたあたりの幹を、自分もそっと、さすってみました。はじめは、片手で、おそるおそる。それから、少しずつ、力を入れて。  すると、木の幹は、妙に、すべっこくなりました。 (なるほど)  勇吉は、すっかり夢中になりました。思わず、のこぎりをすてて、両手で、力いっぱい木をこすりはじめました。  もう、手の皮がむけるほどこすったと思われるころ、木は、うっすらと、すきとおってきました。  そして、木の中が、ぼんやりと、見えてきたのです。  そこは、まるで、水の底のへやのようでした。壁にともしたランプが、ゆらゆらとゆれて、その青白い光の中に、木の精が、むこうをむいて、ひょろっと立っていました。ほそい背中を、ぶるぶるふるわせながら、何かしきりに、呪文をとなえていたのです。ふと、勇吉は、子どものころ遊んだ、ビー玉を思い出しました。あれを目に当てて、外を見ると、ちょうど、こんなふうに見えるのでした。ビー玉の中に、とじこめられた人は、青いガラス鉢の中の、めずらしい魚のように見えるのでした。勇吉は、思わず、大きなため息をつきました。  このとき。  木の精が、くるりとふりむいたのです。勇吉は、ぎょっとして、あとずさりしようとしましたが、足が動きませんでした。おばあさんは、勇吉をじっと見すえると、かすかに笑ったようでした。それから、うなずいて、やさしく手まねきをしました。このとき、勇吉はなんだか、ふーっといい気分になったのです。体が、とろけて行くような気がして、頭が、くらくらして、そして、あっと思う間に、木の中に、すいこまれて行きました。  木の精のへや——  そこに、一歩はいったとたん、勇吉は、ふしぎな気がしました。こんなへやを、いつかのぞいたことがあるような気がしたのです。  広さは、たたみ半分ほどで、壁に、姿見が、一枚ついていました。小さなほら穴のような感じで、むこうがわに、カーテンが、かかっていて……勇吉は、どきっとしました。 (かりぬい室!)  そう、たしかにそこは、あの、かりぬい室でした。ぴったりと泰山木についてたっているこの家のかりぬい室は、まさに、木の幹の中だったのでした。とっさに、勇吉は、カーテンの方へ進もうとしました。そこから、仕事場へ、とびだそうとしました。けれども、このとき、おばあさんの声が、りんと、ひびいたのです。 「かりぬい室のカーテンは、夜はあきません。そこは、若い娘だけの通り道です」  勇吉は、木の精と向きあって、わなわなふるえました。おばあさんは、石のような、灰色の目で笑いました。それから、ふいに、しわがれ声で、歌いはじめたのです。  「わたしの木の葉が 一枚ふえた   上等の木の葉が 一枚ふえた   わたしの仕事は 早くなる」 (木の葉にされる!)  そう思ったとたん、勇吉の体は、まわりはじめました。くるくると、まるで、つむじ風の中の木の葉のように。両手を高くあげ、つま立ちをして、勇吉は、まわりました。青いランプが、ぐるぐるまわり、その光が、波紋のように広がって、自分のまわりに、青い海が、できてゆくように思われました。自分の体が、ちぢんで、だんだん、緑色に染まってゆくような気がしました。  と、勇吉の耳に、木の葉の娘たちの、さわやかな歌声が、聞こえてきました。  「たんぽぽ すぎな れんげ草   つくしに よめなに かやつり草   今夜はみんなで よもぎのおもち」 「ほっ」勇吉の心は、急に明るくなりました。なんだか、たのしくてたのしくてたまらなくなりました。勇吉は思わず、大きな声をあげました。  「今夜はみんなで よもぎのおもち」  すると、少女たちは、よびかけるように歌いました。  「すみれ 菜の花 うさぎ菊」  そこで、勇吉も、よびかえしました。  「はこべ つゆくさ ふきのとう   あしたはみんなで 赤まんま」  いつか、勇吉の目の前に、広い広い、月夜の野原が広がっていました。  せせらぎの音がします。花の匂いがします。おおぜいの少女たちが、つみ草をしています。  と、その中のひとりが、ついと立ちあがって、勇吉を見て、にこっと、笑ったのです。なつかしい、白い顔でした。かわいいおさげ髪でした。 「お兄ちゃん!」  少女は、はっきりと、そう言いました。それから、うれしそうに手まねきをしたのです。 「お兄ちゃん、早く早く」  勇吉は、両手を広げ、大声で妹の名をよびながら、野原のまん中へ、とびだして行きました。  次の朝、おい茂った泰山木の下で、洋服店はいつものように、店を開いていました。 安房直子(あわ・なおこ) 一九四三年、東京に生まれる。日本女子大学国文科卒業。大学在学中に山室静に師事する。幻想的な作品を書き続け、絵本や童話集などを多数出版。主な著書に、『風と木の歌』(小学館文学賞)『遠い野ばらの村』(野間児童文芸賞)『風のローラースケート』(新美南吉児童文学賞)がある。一九九三年歿。 本作品は一九七三年十一月、筑摩書房より刊行され、一九八六年八月にちくま文庫に収録された。